アート・アーカイブ探求

中村正義《舞妓》──反逆するプリミティブな日本画「大野俊治」

影山幸一

2011年11月15日号

叫びが聞こえる

 1952年豊橋市に生まれた大野氏は、ドラマーである。中学生のときから音楽に親しみ今も演奏しているそうだが、これは趣味の話。本職は近現代美術を専門とする学芸員であり、画家でもある。大阪芸術大学美術科に入学し、以後現在までシュールな作品を制作・発表しながら、1978年より豊橋市役所職員となり学芸業務を行なっている。最近では、静岡県掛川市の町家を開放して作品を展示し、3日間で3万人を集めた「第13回遠州横須賀街道ちっちゃな文化展」に出展、多才で活動的な学芸員である。
 しかし、子どもの頃は絵が下手で見かねた母親の勧めで絵画塾へ行ったことが美術への道の第一歩のようだ。大学では洋画家の松井正(1906〜1993)に学んだ。そして雑誌で豊橋市出身の美術家・星野眞吾の人体の痕跡を用いた人拓(じんたく)を使った作品を見て、星野に会いたいと思ったそうだ。イヴ・クラインの《人体測定》シリーズ(1960)がすでに発表されていたが、星野の人拓はそれとも違った前衛的な作風で魅力があった。たまたま星野の絵画塾に通っていた後輩がおり、星野宅を訪ねることができた。そのとき星野から正義の話を聞き、正義にも関心を持つようになったのだと言う。
 そして大野氏は美術博物館に就職し、地元作家の展覧会企画を行なうようになっていった。その際、すでに物故作家となっていた正義の調査を始めることになり、1980年には正義最初の回顧展「異端の天才画家─中村正義展」を開催した。画業の集大成といっていい最晩年の大作《うしろの人》を初めて前にした大野氏は、過去に体験したことのない悪寒に襲われ、全身に鳥肌が立った。理屈ではなく、絵から発するエネルギーをじかに受けたという大野氏。死期を予感した焦燥にも似た正義の悲痛な叫びが聞こえてきて、これはすごい作家だと実感したそうだ。やがて大野氏は、正義が創立した作家集団「从(ひとひと)会」の会員となる。

日本画壇の救世主

 正義は、慶応元年から続くこんにゃく問屋「織九(おりく)」の長男として1924年豊橋に生まれた。女子が続いた後の末っ子で、子どもの頃より病弱で豊橋市立商業学校を中退し、自宅で静養することになる。以後肺結核、直腸癌、肺癌を患いながらの創作活動が亡くなるまで続いた。
1939年に同郷の画家・星野眞吾と知り合い、生涯の友となった。星野が通う京都市立絵画専門学校に入学を希望したが、中学卒業資格が無いため断念。そして豊橋駅前の和菓子店、松月堂の河合岩次の紹介により、日本画家・中村岳陵の門下となり画塾「蒼野社(そうやしゃ)」に学んだ。1946年日本画壇の主流であった日本美術展覧会(日展)に《斜陽》(図参照)を出品し、初入選を果たした。静と動と時間を取り入れた、透明感のある優しい緑色した風景画、後年に制作されたポップな黄色い《舞妓》との落差はかなり大きい。
 戦争により有能な人材を失い低迷していた日本画壇にとって、正義の画壇出現は、救世主的な存在として迎えられたようだ。華々しいデビューで一躍脚光を浴びた正義だったが、この時期母てふが世を去り、最初の妻となる小山ふみ子との結婚は、悲惨なものであった。「夫婦ともに結核にかかり、生活は困窮を極めた。太宰治の小説と同じタイトルをもつ《斜陽》には、繊細で弱々しい表現が目立つ。画面は逆光を受けて虚ろいゆく時の一瞬が、抑えた中間色で描かれ、訪れる闇の世界を暗示している。竹林をさ迷う二羽の黒いアゲハ蝶は、作家自身の心情の投影なのだろうか、命のはかなさや行く末の不安を象徴している」と大野氏は述べた。


中村正義《斜陽》1946, 紙本着彩・額装, 90.8×121.0cm, 豊橋市美術博物館蔵

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