アート・アーカイブ探求

菱田春草《落葉》──ゼロの空間「勅使河原 純」

影山幸一

2010年06月15日号

ルーツは飯田

 四畳半ほどのスペースに、笑顔で迎えてくれた勅使河原氏は、座布団を敷き手ずから紅茶をいれて、あぐらをかいてインタビューが始まった。勅使河原氏は、学芸員になる以前には具象の大きな油彩画を描き第22回シェル美術賞展佳作賞を受賞、また学芸員になってからも『美術館からの逃走』(現代企画室, 1995)で、学芸員に贈られる第7回倫雅(りんが)美術奨励賞を受賞している。定年退職後、美術館活動を超えた活動をしてみたいという思いから、美術評論家事務所を開設したと言う。大学や美術館などで講師や各種委員を務め、インターネットでは500人の作家とネットワークを構築している。
 勅使河原氏が『菱田春草とその時代』を書いたのは、今から30年前になる。1948年岐阜県生まれの勅使河原氏の家は元々長野県飯田市の出身で、菱田春草の菱田家と同じく殿様・堀氏に仕える下級士族だったそうだ。勅使河原氏は東北大学美学美術史学科を卒業して会社に勤めていた頃、菱田家の人から春草の親戚と告げられ、春草の資料が段ボール箱に詰めていくつかあるので研究を深めないか、という申し入れを受けた。勅使河原氏は絵描きになりたくて油彩画を描いていた時期だった。しかし自分のルーツ探しにもなると思い、仕事をしながら菱田春草研究を始め、大著を上梓した。その本が偶然、世田谷美術館開設準備室長の目に止まり、1986年に開館した世田谷美術館に学芸員として入ることになった。人生が大きく変わったと言う。

日本画という新境地

 菱田春草は、明治時代に生きた日本画家である。明治維新という劇的に時代が変貌する中で、伝統的な日本の文化は、西洋文化の激流に呑み込まれていった。日本古来の価値観の転倒、矛盾や混乱は、鋭敏な人であればあるほど、苦しい日常であっただろう。洋画の導入により、狩野派や土佐派などの伝統絵画は、日本画となった。日本の近代美術が多くの作家の苦闘の上に築きあげられたといわれるが、その日本美術の革進者の一人が、春草である。
 春草は、1874年長野県飯田町の武家屋敷に7人兄弟姉妹の三男に生まれた。兄の為吉は画才のある数学者、弟の唯蔵は工学博士で東大教授。春草は法律家を志望していたというが、7歳でその画才を認められて、16歳で東京美術学校絵画科に入学した。卒業作品に反戦と家族愛をモチーフとした《寡婦と孤児》を描き、最優等となる。校長であった岡倉天心には認められたが、厳しい批判も受けたようだ。
 一方、日本美術を強力に改革推進していた天心は、その意図が理解されず反対派に追われるように校長の職を辞任し、日本美術院を創設した。天心に共鳴した横山大観、下村観山らと春草は、美術学校を去り、日本美術院を拠点として日本画の新境地の創造を目指して突き進んだ。琳派など日本の古画を深く学び、西洋画も合わせて、日本の近代美術を開拓した。大観との欧米外遊は、日本画とは何か、という伝統の受容を突き詰め続けたが、西洋画の研究が不十分で、日本画が本来備えるべきはずの没骨法(輪郭線を描かずに対象を表わす技法)を失ってしまい、朦朧体と揶揄される結果となった。他方、日本美術院の経営は悪化の一途を辿り、天心の別荘のある茨城県の五浦(いづら)に場所を移すことになる。魚も買えず魚を釣って食にあてたという逸話が出るほど貧窮に陥った。この頃から春草は、次第に視力の異常を訴えるようになった。医師の診断の結果は網膜炎。しかも悪性で失明の恐れがあり、腎臓炎を併発していることが分かった。1908年、春草は東京・代々木に移転し療養生活を始めた。代々木の雑木林を観察する生活の中から生まれた作品が《落葉》である。死の二年前、第3回文部省美術展覧会(10月15日, 上野竹の台)に出品し、最高賞である第二等賞第一席を獲得した。

【落葉の見方】

(1)モチーフ

雑木林の地面。右隻の緑濃い杉の若木と、左隻の同じ位置に黄葉した橡(とち)の木、ごつごつした櫟(くぬぎ)、すらりと伸びた欅(けやき)、細い枝に止まる小鳥など。これらは散り敷かれた落葉によって地面を明示するのに貢献している。

(2)題名

落葉。1909年(明治42)に同じ題名で5作品(永青文庫〔重文〕, 永青文庫〔未完〕, 滋賀県立近代美術館, 茨城県近代美術館, 福井県立美術館)の屏風形式の作品を制作。《落葉》はシリーズと考えてもよく、何枚も描いたというのは、春草の思想の深まりを表わす。

(3)構図

地面と木の接地点(根元)が見えるような斜めから見下ろした構図。左右両隻は各々10本ずつの樹木。木々の遠近を明確に表わす計測的な配置。島内松南の《落葉》(1907)の奥まってゆく空間表現は、春草に影響を与えたと考えられる。

(4)色

画面全体が淡い枯色の階調。下地を塗った上に厳格な色彩設計がある。遠い位置の樹木は青味がかる。右隻では、図④⑤⑦が同系統色で地塗りされ、②③⑨がやや淡い同系統色、①⑥⑧が最も淡くしかも青味を含んだ薄ねずみ色で地塗りされている。左隻では、遠景の⑩⑬⑯⑰が淡く青味のある象牙色で統一され、他の中景、前景の木々はバラバラに思われる(図参照)。


木の色彩設計《落葉》(上:右隻・下:左隻)永青文庫蔵

(5)線

線によって落葉を豊かに表現。落下して間もない葉、時間の経過した葉の質感が区別できる。感情移入のない安定した線。

(6)技法

偶然性の高い技法は排除し、遠くのものほど色彩が薄くぼける色遠近法。空刷毛や胡粉を使い空気感を表現する朦朧体画法を経て、色彩を使った空間表現を模索しており、明治30年代半ばに起こった水彩画の流行の影響のためか薄塗り。大木の樹肌表現や虫食いの葉などの描写はリアル。

(7)サイズ

六曲一双(各157.0×362.0cm )。

(8)制作年

1909年(明治42)。

(9)画材

紙本着色。

(10)音

静寂。小鳥の鳴き声、落葉がカサカサと擦れる音、風の音などが聞こえる静けさ。

(11)季節

秋。

(12)落款

右隻のみに署名と「春艸」の白文方印。作品に影響しないよう最小限に留めている。

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