アート・アーカイブ探求

黒田清輝《湖畔》──西洋画受容の芽生え「田中 淳」

影山幸一

2010年07月15日号

ゴッホの画集

 中世ヨーロッパの 貴族の館がモデルの黒田記念館はクラシックな2階建て。東京美術学校の教授で明治生命館や鳩山会館を手掛けた岡田信一郎の設計による昭和3(1928)年の美術館建築である。ここには黒田の油彩画126点、デッサン170点、写生帖、書簡などが所蔵されている。2階の一室が黒田記念室であり、中央にはいつも《湖畔》が置かれている。
 田中氏は、子どもの頃より絵が好きで画家になりたかったと言う。高校一年生のときに初めてもらったお小遣いで『現代世界美術全集〈8〉ゴッホ』(1970, 集英社)を購入したそうだ。ギラギラとした生命感にショックを受けたと言う。そして雑誌『三彩』を見て、日本人でゴッホみたいな人と思ったのが萬鉄五郎だった。東京藝術大学に入学し、卒業論文も修士論文も日本近代絵画史について書いた。
 1983年東京国立近代美術館に就職した田中氏は、1994年に東京国立文化財研究所(現東京文化財研究所)に異動、大学時代から数えると日本近代美術史の研究を30年近く行なっている。
 黒田記念館に設置されていた研究所は、2000年に新庁舎が竣工し移転、そのため黒田記念館はギャラリーを増床するなど、リニューアルして作品を公開している。記念館には当時田中氏が研究所で使っていたという黒光りした木の机が今もそのまま残され展示されており、当時を彷彿させる。田中氏が始めて《湖畔》の現物を見たのは東京国立近代美術館の研究員の時だが、黒田を本気で調べたのは研究所に移ってからだと言う。

外光派

 新しい視覚と思想、リベラルな精神によって美術界を改革した近代洋画の父と呼ばれる黒田清輝。本名は「きよてる」だが、呼び名の「せいき」をペンネームとした。黒田は、1866年薩摩藩士黒田清兼の長男として現在の鹿児島県鹿児島市に生まれている。5歳の時、伯父清綱(のち子爵)の養子となり、日本画と水彩画を勉強し、普通教育を終えてからは漢学や英語、フランス語を学んだ。1883年政治家を志して東京外国語学校のフランス語科を受験し、二年級に編入したが、1884年義兄がパリの日本公使館の書記生として赴任するのに伴い、9年間にわたりフランスに留学することになる。当初は法律の研究を目的としていた。渡仏した翌年、工部美術学校出身の洋画家・藤雅三(ふじ・まさぞう)がパリに来て、フランス人画家ラファエル・コランに師事することになった。フランス語に不自由していた藤の通訳をし、さらに藤の門人である久米桂一郎がパリに来て、黒田の絵画への関心は一層強くなる。当時パリにいた洋画家・山本芳翠(ほうすい)や藤雅三、美術商・コレクターである林忠正などから、法律家よりも画家となったほうが日本のためになると勧められ、1886年黒田はコランに師事することにした。そして1890年パリ近郊の景観のよいグレー村に移り、2年半絵画に専心した。
 1893年(明治26)黒田は帰国し、京都で《昔物語》を構想し、《舞妓》を描いて外光派★1を日本にもたらす。1894年に久米とともに洋画研究所天心道場を開設、1895年第4回内国勧業博覧会に、パリ時代の代表作《朝妝(ちょうしょう)》を出品し裸体画論争が起きる。東京美術学校の校長であった岡倉天心は西洋画科を置くことを決め、1896年指導官に黒田を起用した。同年黒田は白馬会を結成し、1899年には白馬会絵画研究所を設立。1900年パリ万国博覧会に《智・感・情》とともに《湖畔》も《Au bord du lac》(湖のほとり)という題名で出品した。

★1──アカデミックな写実性を保ちながら、光と色で見る印象派的な明るい外光表現を取り入れる折衷的なもの。

【湖畔の見方】

(1)モチーフ

婦人と風景。神奈川県箱根の芦ノ湖畔(現在の箱根ホテル近辺)で、浴衣姿に団扇を持った24歳の黒田照子夫人を描いた気品のある肖像画と、山並みや湖面の自然を描いた風景画とを合せた。

(2)題名

湖畔。第2回白馬会展(1897)に《避暑》の題で出品後、《湖畔》と改題した。《Au bord du lac》や《湖邊》、《避暑(湖辺婦人)》という題名になったこともある。

(3)構図

反射近赤外線画像(図参照)により木炭の下描きが確認された。安定した構図は早い段階から決まっていたようだ。しかしこの構図には無理を感じる。黒田の視線は湖面と同時に人物にあり、写生地である芦ノ湖に実際に行ってみると、湖面は上から見下ろすように描いたことがわかった。


《湖畔》の反射近赤外線画像
東京文化財研究所提供,城野誠治・鳥光美佳子撮影及び画像形成

(4)色

画面全体淡い微妙な色。青紫を主調色とする画面に、かんざしと唇に薄紅色のアクセントを配している。

(5)技法

白色の地塗りをした上に、不透明な絵具を水彩画のようにフラットに薄塗りにしているが、人物はやや厚く塗っている。黒田の他の作品、例えばグレー村の澄んだ空気の中で描いた《赤髪の少女》(1892)と比べると圧倒的に遠近感が希薄で平面的。おそらく黒田は目とセンスがいい人で、素直に夏の芦ノ湖の現実を描いたのだと思う。

(6)サイズ

69.0×84.7cm。25号のF(Figure)サイズ。本来は人物を描くために縦長に設置して使うFという大きさのキャンバスを横に使い、人物と風景を描いた。婦人だけでなく回りの風景も描きたかったのだろう。顔など原寸大で描かれている(図参照)。


《湖畔》の顔部分
東京文化財研究所提供, 東京国立博物館蔵
*クリックすると拡大します。(96dpiの画面表示のとき原寸)

(7)制作年

1897年。1893年にフランスから帰国してから制作した作品。

(8)画材

油彩、キャンバス。

(9)修復

履歴は残っていないが40年くらい前に額装を変えた。補彩はなし。画面に修復は施していないようだ。

(10)季節

夏。

(11)サイン

「SÉÏKI, KURODA. ─1897─」とフランス語読みに合わせて紫がかった濃い青色で表記。

(12)重要文化財

1998年に指定。1927年(昭和2)朝日新聞社主催の「明治大正名作展」に出品され、名作の評価を得る。1968年の文化財保護審議会において《舞妓》は重要文化財に指定されたが、《湖畔》は美術評論家の土方定一と彫刻家の石井鶴三が反対したため指定が遅れたと言われている。

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