2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

デジタルアーカイブスタディ

デジタル公共圏における地域映像アーカイブの役割──風景から「ともに生きる場」を構想する

水島久光(東海大学教授)

2018年09月15日号

デジタルアーカイブは、社会の情報基盤のひとつとして広く認識されてきた。市民目線から見るデジタルアーカイブ、生活に根差したデジタルアーカイブとはどのようなものなのか。『手と足と眼と耳:地域と映像アーカイブをめぐる実践と研究』(学文社、2018)の編著者であり、メディア論、社会思想、情報記号論の研究をベースに、地域コミュニティによる映像アーカイブの現場に立つ、東海大学文化社会学部広報メディア学科教授の水島久光氏にご執筆いただいた。

ダムに沈んだ街、大夕張──写真に残されたかつての賑わい

財政破綻で耳目を集めた北海道夕張市の東部に、かつて住民が誇りを持って「大夕張」と呼んだエリアがあった。三菱大夕張炭鉱の城下町で、最盛期の1950年代には2万人の人口で栄えた夕張市鹿島地区、いまは国内最大規模の多目的ダムで全国第2位の湛水(たんすい)面積を誇る夕張シューパロダムに沈んだ街である。

三菱大夕張炭鉱の閉山は1973年、仕事を求める多くの住民は、隣の南部地区(三菱南大夕張炭鉱事業地)などに移った。それでもその後二十数年はささやかではあっても、ここに人々の暮らしのぬくもりは残った。しかし1991年のダム着工決定、1998年の全戸移転で、完全に街の灯は消える。今年は、それからちょうど20年になる。

その後の経緯もやや複雑である。既設の大夕張ダムの水没に伴う国道452号線の付け替え工事完成が2011年末、試験湛水の開始が2014年──更地となった街は、十数年にわたってその寂しい姿を晒し続けたのである。現在も新国道から下をのぞき込めば、随所に暮らしの微かな痕跡を確認することができる。そしてそこから視線を上げれば、あの日と同じように、眼前には夕張岳が聳え立つ。この風景を前に、訪ねてきたかつての住民たちの心には、ひとつの問いが浮かぶ。「私たちは、なぜこの街を離れなければ、ならなかったのだろうか」。


図1 ふるさと大夕張の碑(撮影:水島久光、2011.9)
1998年の大夕張地区全戸移転の前年に制作。作者は芦別市出身の彫刻家・鈴木吾郎氏。このときはまだ夕張市立鹿島小学校の跡地に置かれていたが、試験湛水開始を受けて、新国道沿いの大夕張眺望公園に移される。


図2 さよなら大夕張ダム感謝の集い(撮影:水島ゼミ、2013.7)
シューパロダムの完成とともに水面下に沈む旧大夕張ダムの堰堤で、太鼓の演奏が行なわれた(撮影はシューパロダムから)。奥に見える管理事務所も沈んだ。


図3 大夕張神社から大夕張全景 昭和53(1978)年。三菱大夕張炭鉱閉山から5年後の風景。空き地が目立つ。
(「大夕張写真展」[夕張市石炭博物館、2006]データより)


図4 大夕張シューパロ湖 湖畔(昭和30年代)
当時シューパロ湖は市民の憩いの場であり、「シューパロ湖駅」(三菱大夕張鉄道、1973年廃線)「湖畔亭」などが設けられていた。


図5 大夕張商店街(昭和30年代)
大夕張駅からバス道路沿いに連なる商店街。森永薬局、メガネの福川などの文字も。

人々の営みが流された街、気仙沼──過去の映像にみる生活史

「地域」にとって、アーカイブが果たすべき大切な役割のひとつが、この「風景」を記録していくということである。風景は、遥か遠くからただ眺めるためにだけあるのではない。この言葉が常に郷愁とともにあったということに足を止めると、それは人々がそこで生きてきた時空間を映し出す「イメージ」であり、それゆえに繰り返し心に去来し、その場と認識主体を結びつける「のりしろ」として働いてきたことがわかる。

「風景が脅かされるほど人々は風景に心を寄せる」と、オギュスタン・ベルクは言う(『風景という知──近代のパラダイムを超えて』世界思想社、2011、p.8)。2015年秋、僕は偶然、この稀代の地理学者と、津波に襲われた宮城県気仙沼をともに歩く機会を得た。旅人であった僕らが、風景が失われた街で、風景について語ることができたということ自体に、この言葉の普遍性がある。

「ある社会の、空間と自然に対する関係」(『風土の日本』筑摩書房、1992、p.151)──和辻哲郎から着想を得たベルクの「風土(écoumène/milieux)」概念は、アメリカの心理学者J. ギブソンの「アフォーダンス」やチリの生物学者F. J. ヴァレラらの「オートポイエーシス」などと同じように20世紀ヨーロッパ哲学の知見を取り入れ、再帰的にかたちづくられる理論として磨かれていった。「風景は風土〈エクメーネ〉的な動機〈モチーフ〉であり、それに固有な要素(lgS)とその表象(lgP)で構成される」(ベルク『風土学序説』筑摩書房、2002、p.281)──風景はすなわち、その風土への思考に僕らをいざなう、記号素の集合体なのである。

気仙沼の映像アーカイブに出会ってわかったのは、「津波が押し流したものは、建物やインフラといったオブジェクトに止まらない」ことだ。むしろ港町の日常、人々の営みという無形のものたちが消えたインパクトの方が大きい。それは文化という言い方をしてもいいかもしれない。試しに、過去のこの町の映像をいろいろ取り寄せてみた。そして愕然とした。なんとこの街の日常は、30年前のいわゆる「200海里体制」施行から、時間をかけてゆっくりと崩れていた。津波はそれを振り返る手掛かり、すなわち生活史の痕跡もろとも、街を藻屑と化したのだ。

あれから7年経った気仙沼を歩くと、かさぶたが取れ、まるで生まれたての皮膚のような剥き出しの赤土と、新素材ファサードが織りなすプラスティックなランドスケープが目に飛び込んでくる。さてこれから、この街にはどのような人々が住み、どのような日常を生きていくのだろうか。

参考サイト:気仙沼311まるごとアーカイブ


図6 『嵐の気仙沼』のオープニングシーンから、震災前の近海操業船の寄港でにぎわう気仙沼港
(NHK、2009年、NHKアーカイブス学術利用トライアルに採択)


図7 震災後の気仙沼 建設途中の防潮堤(気仙沼港)(図8-11 撮影:水島久光、2015.11)


図8 震災後の気仙沼 旧大船渡線鹿折唐桑駅周辺


図9 震災後の気仙沼 完成したばかりの災害公営住宅(南郷地区)


図10 震災後の気仙沼 安波山から港を見下ろす(図6右とほぼ同アングル)

再開発ラッシュの街、渋谷──スナップショットに写る若者文化

ダムへの水没と津波──暮らしの記憶を根こそぎ消し去る力の現前。それは遠く離れた「地方」の出来事とは言いきれない。なぜなら、いわゆる都市生活のなかでも、この手の理不尽さを目の当たりにする経験は少なくないからだ。

いま東京は“2020”を目指して空前の「再開発ラッシュ」である。「建設業界の新卒有効求人倍率9.55」という数字に表われた「期待すべき業界」の偏りは、そのまま片っ端から見慣れたビルを壊し、地下を掘り返し、人工的に焼け跡をつくることで「復興へのエネルギー」をねつ造する作為に直結している。

なかでも外苑から渋谷一帯の変貌は異常である。昨年僕は、1980年以降長きにわたり「東京のストリート」に注目し、時の流れに寄り添い続けてきたメディア『ACROSS』の編集長高野公三子さんとともに、「定点観測」として記録してきた数々のスナップショットをスクリーンに映しつつ、語り合う機会を得た(日本記号学会第37回大会、2017年5月)。1990年代、思い思いのファッションに身を包んだ若者の背景に映り込む風景は、彼らがそぞろ歩き、夢を描きあう世界を成していた。

だが、その空間もすっかり変わってしまう。屹立する高層ビルと、無時間的な迷宮と化した地下街の中の、いったいどこに今日の若者は「自分らしく生きようとする想い」を吐き出すというのだろうか。改めてベルクの「風景は風土の動機〈モチーフ〉」という言葉を反芻してみる。「風景の生命には、三つの水準がある。すなわち自然(地質、進化、季節の循環……)、社会(人間的出来事の歴史)、そして個人──当の風景を現前あるいは表象において眺める、あなたや私──の水準である」(『風景の知』p.12)。

都会にも都会なりの「自然=生態系」がある。そう解釈したとき、大夕張、気仙沼、渋谷の三つの地域が背負う「傷ついた風景」の背景に、拡張を義務づける社会構成原理が通底していることが見えてくる。資本主義が欲望し続けてきた「規模」と「スピード」。それがグローバル・エコノミーとして肥大化したとき、等身大の人々の生を包む「風土」は危機に追い込まれた。僕らはいま、間違いなくこの問題を立ち止まって考えるべきときに来ている。

参考サイト:ストリートファッション・マーケティング『ACROSS』定点観測


図11 渋谷マークシティ5階から旧東急プラザ方面を望む。(撮影:水島久光、2018.9)


図12 宮益坂下交差点、銀座線移設工事中。絵本『ちいさいおうち』状態。(撮影:水島久光、2018.9)


図13 渋谷駅地下乗り換え通路。色とりどりのサインと矢印がいっぱい。(撮影:水島久光、2018.9)


図14 明治通り歩道橋から宮下公園を見下ろす。(撮影:水島久光、2018.9)

デジタル技術の発達と、記憶と記録

「市場経済」と「マスメディア」は、いわばグローバル・エコノミーが覆う世界の「風土」と「風景」の関係にあたる。もちろん、その起点たる近代精神に遡れば、僕たちはそこから物質的な豊かさ、自由と平等の観念を学ぶ両義的機会を得てきた。しかしそれも行きすぎては、自らの尾に喰いつくウロボロスにならざるをえない。「傷ついた風景」はその警鐘である。

ところでその欲望は、思わぬ副産物を与えてくれた。1日24時間という時間、地球という空間のアナログな制約性を超えて「規模」と「スピード」を追求し続けられるように、僕らはデジタル技術を手に入れたのである。オンデマンド・プロダクトやソーシャル・メディアはまさにこの新たなパラダイムの先兵であった。それはさらなる世界のマス化を推し進める一方で、有限な物質を囲い込む資本の力から、自由になる道をも示してくれている。このアンビバレンツ(両義性)のなかでいかに生きるかが、問われる時代となっているのだ。

「記憶」と「記録」の関係も、デジタル技術によって大きく変わった。かつては主に公的な出来事を次代に遺すために蓄積された記録は、いまや手のひらの端末やクラウド上で記憶を追い越すように自動生成されている。それは僕たちにとって、大きなチャンスである反面、記録を支えるビジネスやシステムの破綻とともに、一気に記憶を失うリスクを抱え込んだことになる。いや、そうしたクライシスを待たずとも、日々の情報に振り回されている僕らは、すでに過去を失い、都度の保身のみに汲々とする「記憶喪失」状態にあるともいえる。

この新たなアンビバレンツは、実はデジタル技術の本質に由来する。デジタルの語源であるDigit(指)が為す行ないは、(同義反復的ではあるが)指し示すのみで実体を持たない。僕たちは、ただ情報を食べては生きていけない。どこまでも「拡張」を指向する力に抗うには、それを現実の「生きられる時空間(生態系)」と愚直に結びつけていく記号論的営みを、続けていく必要があるのだ。

地域がつながる、新しいコミュニケーション・システムのデザイン

デジタル環境下におけるアーカイブが、「風景」を記録し続ける意味はここに尽きる。そしてそれが「地域」という単位で実践されるべきなのは、一人ひとりのかけがえのない生が、砂粒のように流され、あしらわれてしまわないよう、グローバル・エコノミーとの、力学的な均衡を見出す礎石になるからである。

それは、公共圏(Public Sphere)という概念を「ともに生きる場」という柔らかい言葉に戻して考えることから始まる。アーカイブに保存される写真や映像たちは、ただモノとして量的にストックされることを望んではいない。ことあるごとに陽の当たるところに引っ張り出して、市民の「記憶」と重ね、丁寧に解釈を与え、共有する仕組みをつくっていかねばならない。

さまざまなパブリック・スペースとローカル・メディアの連動、そのなかにおけるアーキビストとファシリテータとキュレーターの協働──そのための、新しいコミュニケーション・システムのデザインが必要なのである。もちろん一方で、マス・システムにもその健全な機能を果たしてもらわなくてはならない。

“デジタルアーカイブ”をそれらのハブに、公共圏をボトムアップで組み上げるアプローチがあってもいいのではないか──いま僕は、ダムに沈んだ街「大夕張」の数百枚の写真と、市民の手による映像、それからいくつかのテレビ番組映像と、かつてのこの街に住んだ人々の声をつなぎ合わせて「風景」を立ち上がらせる試みを始めている。そのアイデアは、気仙沼や渋谷をはじめ、全国の「地域」で出会ったプロジェクトとのつながりに、間違いなく後押しされている、と実感する。

そうした実践のなかで、新しい時代の「風土」とはどのようなものか、少しずつ考えていけるようになったらいい。少々時間はかかっても、一歩ずつでも。

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