アートプロジェクト探訪

アートシーンや地域に風穴を開ける「遊工房アートスペース」

白坂由里(美術ライター)2010年12月15日号

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  六本木のように華やかでもなく、秋葉原のように異色でもない、東京のごく普通の住宅街にある「遊工房アートスペース」。アーティスト・イン・レジデンス(AIR)と非営利ギャラリーでの展覧会を平行して通年行なっているオルタナティブスペースだ。また、地域と連動して、毎年春と秋には、近くの都立善福寺公園を会場とした野外アート展「トロールの森」を開催している。ディレクターを務める村田達彦、弘子夫妻に、2011年に10周年を控えるにあたり、これまでの活動について尋ねた。


左=遊工房アートスペース。もと診療所の面影が残る。写真左奥に、増築したギャラリーとスタジオが続く
右=アンティ・ユロネン《こころみ──東洋の風を聴く》(2002)
「トロールの森」の名付け親でもあるフィンランドのアーティスト

創作活動の源となる異文化交流

 東京・杉並区の北西に位置する緑豊かな環境。現在、創作スタジオおよび滞在施設、ギャラリーを備える遊工房アートスペースは、50〜70年代は村田達彦氏の父が営む診療所だった。その後、達彦氏の妻で彫刻家の弘子氏のアトリエや美術教室、アニメーション・スタジオなど、さまざまな美術活動の場(スペース)となる。1998年から「FUJINO国際アートシンポジウム」★1を手伝い始めたが、2002年に文化庁からの助成がなくなるとともに同シンポジウムは休止に。その後、現在の場所で、自分たちの手で本格的にレジデンス施設の運営を始める。
 現在は三つのレジデンス施設と三つのスタジオを有し、同時に3組の受け入れが可能だ。滞在者は、短期も長期も合わせ、1989年から2009年末まで164人を数える。現在は年間15〜20人を受け入れている。個人経営のため、渡航費、制作費、滞在費の助成はできず、作家が自分で工面する必要があり★2、助成を得やすい北米や西ヨーロッパからの作家が多い。アジアの作家も招きたいが、アジアから欧米に移住した作家がやはり多いという。
 日本でレジデンス事業は公的機関による運営が多く、遊工房のように、民間で常時受け入れ、公募もある施設は希少だ。村田夫妻のこうした試みの根底には、海外での滞在経験がある。東芝でエンジニアとして働いていた達彦氏は、大学の工学部時代に海外の工場での研修プログラム「IAESTE」に参加。「イスタンブールに半年間滞在しながら異文化に触れた体験が強烈に印象に残っていて、若い頃の恩返しのつもりでスタートしたんです」。
 弘子氏も、30代後半から40代前半に、トルコとフィンランドで開催された野外彫刻シンポジウムに参加した。「一緒に制作するうちにさまざまな国の作家の制作手法や考え方が見えてきて、生活も一緒ですし、刺激を受けました。これは、若い作家は特に体験すべきだと。地域の人の生活に触れることで、自分にこれまでなかったアイデアも湧いてきます。自分も含めて、言葉で表現することが得意じゃない作家は多いですが、喋らざるを得ない状況でもまれることも必要ですよね。そんな思いから、日本のアーティストと海外のアーティストが交流できる場所をつくりたいと思いました」。
 続けて達彦氏は問う。「美大で、もしいまも、卒業したらお金を貯めて画廊で展覧会を行なうことが標準コースであるかのように教えているとすれば、それって本当だろうかと。発表して評価を受けることは必要ですが、その前に、異文化に浸るような創作活動の素となる体験を増やすことが大切なんじゃないかと思うんですね」。

★1──1993年、中瀬康志を中心にアーティスト主導で発足した「フィールドワーク・イン・藤野」を前身とし、神奈川県の西北端、藤野町全域をアートフィールドとして展開
★2──宿泊施設をともなった創作スタジオ=月10万円と14万円の2種、宿泊施設のみ=月10万円


左=ギャラリーの展示作家、佐藤三加(奥右)と打ち合わせをする村田達彦氏と弘子氏(奥左)。個展は12月12日に終了
右=2010年11月からレジデンス中の韓国出身、カナダ在住のヘィスン・ジョン

海外作家と日本人作家との化学反応

 現在、遊工房のAIRプログラムには、毎年40〜50作家の応募があるという。選定は、アドバイザーである作家やキュレーターの意見を聞きつつ、最終的にはディレクターの2人が決める。「まずなにがしたいかが大事ですね。賞歴などよりも、作家として本当にやりたい、東京に来たいという点を重視し、要望に合わせてこちらが支援できそうか考えます。毎年、6月末を期限としてプロポーザルを絞り込んだ後、7〜8月にメールでやりとりしてモチベーションレターの内容をチェックし、9月に確定します。ギャラリースペースはおもに若い国内作家に発表の場として提供しているので、この海外作家とこの日本人作家はいいぶつかり合いができそうだと思えば、時期を合わせてもらえないかという提案もします」と達彦氏。ギャラリーでの展示作家と合同でオープニングパーティーやトークを行なったり、その後、相手の国に行ったり。これを機に、遊工房の外側でつながりが増えていくことも多いそうだ。
 弘子氏は「ここは東京の住宅地のなかにあって、普通の日本人の生活状況がわかる。地域の雰囲気を知りたい、地域と交流したいという作家を優先にすることもあります」と語る。2004年に招へいされたサラ・オッペンハイマは、「トロールの森」のなかで、善福寺公園のベンチに新聞を毎日配達してもらうプロジェクトを実施。日本の電車のなかで新聞を読むことで自分のスペースをつくる人々から発想し、ギャラリーでも展示を行なった。2010年には、ACC(Asian Cultural Council)の助成を得て、メキシコのイスマエル・デ・アンダが8月にお盆を調査し、11月のメキシコの「死者の日」に合わせて、屏風型のインスタレーションを制作した。屏風は、南蛮貿易によりスペインの植民地であったメキシコにも広がり、現代のメキシコでもよく知られているという。
 彼のように公的機関からの受け入れ依頼も増えており、国際交流基金と外務省が主催で東南アジアの若い作家を日本に滞在させるプログラム「JENESYS Programme(Japan-East Asia Network of Exchange for Students and Youths)」が始まり、2010年にはラオスから作家がやってきた。また、ルクセンブルク大使が視察、2010年度から現地の作家を毎年受け入れることになっている。


サラ・オッペンハイマ《SCREEN2004》2004

 作曲家、ダンサー、パフォーマーなどジャンルも幅広い。「面白い作家か、滞在してお互いよかったと思うかを考えるうちに、そうなった」と達彦氏。「写真などのビジュアルでまずピンと来るものがありますね。言葉で表わすのは難しいけれど、焦点が定まっているというか。作家が実験を繰り返したり、その場を何度も見たり、そういった思いや行為が結果として集約されているんじゃないかな」と弘子氏。
 レジデンスの作家は、希望により最後の1、2週間でオープンスタジオを行なう。滞在制作を公開するかどうかは作家の意思に従う。「オランダの写真家レオ・ファンダ・クレイは、デン・ハーグのナイトライフの写真を200枚くらい壁に貼って昼間は公開し、夜は東京のナイトライフを撮り続けて、少しずつ写真を貼り変えていったんです。その様子を近所の人ものぞきにきた。1カ月後にすべて東京ナイトライフに塗り変わったのは面白かったですね」。

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白坂由里

『ぴあ』編集部を経て、アートライター。『美術手帖』『マリソル』『SPUR』などに執筆。共著に『別冊太陽 ディック・ブルーナ』(平凡社、201...

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