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▲「印度系文字識字力検査表」 |
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▲アジアのコミックのリキテンシュタイン風ポップ・アート |
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▲エントランスホールに貼られたミスプリントのチラシ |
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「アジア文字曼陀羅 インド系文字ノ旅」展が、東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所(以下、AA研)において、6月28日から8月2日まで開催された(内容と反響の一部は以下のサイトで確認できる。http://www.aa.tufs.ac.jp/i-moji/)。文字の展覧会である。しかもインド系文字の歴史と現状を紹介するものだ。展示を見ると、クメール文字、チベット文字、ビルマ文字、デーヴァナーガリー文字、オリヤー文字、マンヤン文字など、その多様性に驚かされる。学術的な展示と言えば、堅苦しいイメージがつきまとう。だが、AA研に所属する小田昌教/ヲダマサノリ氏が、展示構成を担当したことで、そうした予想は見事に裏切られることになった。小田氏は研究者であると同時に、ヲダ氏というもうひとつの顔を持ち、水戸芸術館の「日本ゼロ年」展(2000)で作家デビューし、昨年の横浜トリエンナーレにおいて膨大なジャンクの山を再構成したアーティスト(★)である。
では、どのように彼/カレは同展に関わったのか。
展覧会の構成を説明しよう。
この企画は東京外国語大学のAA研と国立民族学博物館の共催によるもの。そこで民族学博物館の中西コレクション(印刷会社の社長だった中西亮が集めたもの)とAA研の所蔵する文字資料を文献資料室において公開する。ここはAパートであり、いわゆるオーソドックスな学術展示。マンヤン文字刻印の竹筒、パーリ語の仏教経典、エモニエの「フランス語カンボジア辞典」など、約30点を陳列する。もともとの企画は、ここまでが予定されていた。しかし、ヲダマサノリがアートディレクターをつとめ、隣の資料展示室にBパートを増設し、さらにガラス張りのラウンジスペースにCパートを追加する。Bパートはアカデミックな展示とコミカルな展示を同居させ、文字の旅を通して、めくるめく文字曼陀羅の世界を繰り広げる。そしてCパートはインド系文字を素材にして現代美術風の展示を行なう。言うまでもなく、大学らしくない展示はBとCパートである。
Bパートでは、改造タイプライターや活字のほか、AA研のメンバーの秘蔵コレクションを集め、アジアのバービー人形や変な日本語のあるアジアの駄菓子を置く。そしてインド系文字を視力検査表のように配列した「印度系文字識字力検査表」が目立つ。まぎらわしいが、これは展覧会のために制作されたヲダ氏の作品である。文字がねつ造されているのではないかと思う程、興味深いデザインの見なれない文字があまりに多い。しかし、すべて実在するインド系文字だ。世界で14億人が漢字を使うのに対し、インド系文字文化圏は13億だという。決して少なくない。インド系文字は、漢字と同じくアジアを中心に使われている。だが、日本ではなじみが薄い。ヲダ氏のキュレーションと作品は、そうした状況を逆手にとって、グラフィックの面白さを強調し、親しみやすい文字の展示を試みている。すなわち、文字を「読む」のではなく「見る」場なのだ。
Cパートでは、アジアのコミックをリキテンシュタイン風のポップ・アートにしたものなど、ヲダ氏の作品が続く。また、ここではJの文字だけしかない「Jの本」を展示しつつ、それを書くときの音を流し、文字を「聞く」場にもなっている。会場以外にも、よく観察すると、ヲダ氏による奇妙な仕かけが散りばめられている。例えば、エントランスホールにはミスプリントのチラシを壁一面に貼っためまいを催すようなインスタレーション、廊下にはインド系文字のひとつをその形状から金魚に見立てたオブジェなどがある。つまり、文字を「学ぶ」という学術的な展示だけではなく、いろいろな方法で文字を「遊ぶ」というアート的な展示が付加されているのだ。
学術的なAパートと、アート的なB・Cパート。いわば、研究者としての小田昌教と、アーティストとしてのヲダマサノリの両面性が、そのまま展覧会の性格をあらわしている。ちなみに、同展のクレジットでは、ヲダマサノリはアート・ディレクションを、小田昌教はチーフデザイナー、会場構成、解説執筆、実行委員を担当している。小田/ヲダによれば、大学内では他に展示の経験者がおらず、人手が足りないだけに、主体を分裂させながら、ほとんどの仕事を引き受けたという。すなわち、「アートディレクター」の役をひきうけた現代美術家としての「ヲダ」は、苦肉の策として、民族誌家であるもう一人の自分=「小田」に指示を出し、展覧会に関わるアートワークを強引にやらせるという、多重人格症的な状況をつくりだし、なんとか展覧会をたちあげたのである。そして「小田」に言わせると「ヲダ」は「鬼か悪魔」であり、かたやヲダの弁によると「小田」は案外「プロレタリア気質」だったという。
ところで、文字を読むのではなく、見ることは果たして不謹慎なのだろうか。現在、街を歩く若者が着ているTシャツのほとんどがアルファベットである(筆者自身、大学の試験監督の際、学生の洋服を観察したら、文字がある場合、99%がアルファベットのみだった)。これも文字を読んでいるのではなく、見ているのだろう。「アジア文字曼陀羅 インド系文字ノ旅」展のAパートにも興味深い展示がある。「ガネーシャの図像」は中世ヒンディー語が記された写本だが、解説によると、デーヴァナーガリー文字を使いながら、製作者が文字を知らないまま写したらしく、意味をなさない文字やつづりが多く含まれているという。文字をデザインとして扱ったのは今に始まったことではない。それを再確認できる。「ガネーシャの図像」も、Bパートにあるおかしな日本語の商品も、文字を見るという意味では同じ行為なのだ。
東京外語大学のAA研が展覧会を行うのは初めてらしい。にもかかわらず、ユニークな内容が可能になったのは、独立行政法人化の流れを意識したからだという。大学はただ啓蒙すれば良いのではなく、面白いと思わせることが求められている。グラマニメーションと、NTTドコモの協力を得たモジモジフォンの展示も、現代を意識した企画だろう。すべてのインド系文字は、約2300年前に出現したブラーフミー文字から派生し、アジア各地に広がった。まるで生物が進化を続けるかのように。グラマニメーションは、文字とアニメを組み合わせた造語であり、そうした変化をCGによって可視化したもの。モジモジフォンでは、ケータイにインド系文字を表示したり、その発音を聞くことが可能だ。筆談ならぬ、モジ談に使えるという。インターネットの普及に伴い、ますますアルファベットは勢いづいているが、パソコンの画面で、インド系文字を目にしたことがある人は、ほとんどいないのではないか。モジモジフォンは、こうした文字の危機も意識している。
東京大学史料編纂所のコレクションを東京国立博物館で紹介した「時を超えて語るもの――史料と美術の名宝」展(2002)や東大総合研究博物館の企画は、メディアアートとの連動によって、資料の展示を工夫している。民族博物館でも、「2002年ソウル・スタイル――李さん一家の素顔のくらし」展が、会場に李さん一家の生活空間と家財道具をまるごと持ち込み、話題になった。ウィーンのMAKでは、アーティストがキュレーターと共同して展示品のインスタレーションを行ない、椅子や家具の思わぬ魅力を引き出している。ただ見せるのではない。博物館の展示は変わりつつある。これらの企画は莫大な予算をかけているが、「アジア文字曼陀羅 インド系文字ノ旅」展はそれほどの巨額をかけなくとも、大学における展示の可能性を感じさせるものだった。そして大学の展示だからつまらないという常識を破り、最も重要な文字の生命力を改めて認識させることに成功している。
★2002年9月11日、「略称・去年トリエンナーレで――ポスターを持った無産者」展の最終日をもって、ヲダマサノリは美術家の廃業を宣言した。
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