1952年、新制作協会の若手作家、白髪一雄、金山明、村上三郎ら15名ほどが「0会」を発足させる。田中敦子も追って参加する。グループとしての活動は、主に作品を持ち寄っての批評会で、展覧会は、54年大阪そごう百貨店の御堂筋沿いのショーウィンドーで開催された0会展のみである。この展覧会で、白髪一雄は足で描いた最初の作品である、《作品II》を出品、また金山は《作品》と題された、短い線分が画面のエッジに直行するようにいくつか配された水彩と油彩を2点、村上は《投球絵画》を出品している。
49年に始まる「読売アンデパンダン」展、瀧口修造によるタケミヤ画廊企画展、実験工房等の美術家らの動向と並行し、関西地域でも50年前後より若手作家の組織する活動団体が活発化し、積極的な制作、発表活動が行なわれた。そうした状況のなか、以降重要な活動を行なう「具体美術協会」が設立(1954)される。「具体」は設立当初は、50年代後半のような、ほかと差別化されるような団体ではなかった。ほかの団体が有志によって組織されていた点と比較し、「具体」は吉原治良という中心が強い分、脱退等の組織運営上の問題などが生じ、不安定な状態であった。
具体美術協会設立より数カ月後、メンバーである白髪、金山、村上、田中の「具体」への参加によって「0会」は、実質的には消滅する。一方、この参加以後、低迷していた「具体」の活動は明らかに活発化し、「0会」との合流による影響は大きかったといわざるをえない。事実、旧「0会」メンバーは同協会の中心的な作家として活動する。
(森大志郎)
関連URL
●白髪一雄 http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection/item/O_67_746_J.html
●田中敦子 http://www.city.kitakyushu.jp/~k5200020/j/artist/tanaka_a1.html
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