第二次大戦後、ヴェネツィア・ビエンナーレのコミッショナーを務めた美術評論家レイモン・コニアを総代表に、AFAA(フランス芸術振興会)を母胎とするビエンナーレ協会を組織団体として1959年、パリ市近代美術館を会場に開幕。ヴェネツィアを上回る42カ国が参加。展示は各国独自の選定による各国部門と、フランスとフランス共同体部門から構成され、美術評論家、美術館関係者などからなる国際審査委員会が、部門ごとに選考を行ない奨学金を授与した。20歳から35歳までの若い芸術家を対象とし、世界的な現代美術の動向を展観する場として創設されたパリ青年ビエンナーレは、50年代後半からの国際美術界におけるフランス美術の地位の相対的低下という危機感を背景に、フランス美術界の地位を回復しようとする政治的意図をもっていた。第1回展の授与式に列席した文化相アンドレ・マルローは「フランス文化にとってパリが受け入れ都市であり続ける必要性」を強調。以降、ほぼ隔年で開催。ジャック・ラセーニュからジョルジュ・ブダイユが総代表を引き継いだ71年の第7回から傾向別展示となり、73年の第8回には完全に国別展示を廃止するが、82年第12回には再び国別入選制度を採用。85年に延期された第13回は、年齢制限をなくし「新生パリ・ビエンナーレ」として、ヴィレットで開催された。その後も開催が模索されながら、92年に組織は解散。90年代半ばにも、新たな開催の可能性が探られたが、実現していない。
(柴田勢津子)
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