1893年、ヴェネツィア市により隔年のビエンナーレ開催が決議され、1895年、第1回展がジャルディーニと呼ばれるカステロ公園のイタリア館において開催。ビエンナーレの国際的な広がりとともにジャルディーニにはベルギー(1907)、ドイツ(1909)をはじめ欧米を中心とする各国の恒常的な展示館が建設された。美術史家、批評家により構成される国際審査委員会が審査を行なう。ムッソリーニ政権下、イタリア館での展示はファシズムの影響を強く受けるようになり、1942年には全体主義国家および中立国のみの参加となった。戦後はその空白を埋めるべく印象派やキュビスムとフォーヴィスムなどの歴史的特別展示が行なわれた。パリの五月革命の影響で70年の35回からは受賞制度が廃止され、74年にはビエンナーレ自体が中止となる。86年には受賞制度が復活。各国のコミッショナーがキュレーションを担当する国別の展示と賞制度により、オリンピック的な性格をもちながら、国際的な現代美術のショウウィンドウとしての機能を果たしてきた。市内のパラッツォなどでもさまざまな企画展が行なわれている。商業主義が批判されながらも、ほかにはない吸引力を有するのは、その統合原理のない多様さゆえでもある。80年から、別会場のアルセナーレで開かれ、新人の登竜門ともなってきたアペルト部門は、100周年目にあたる95年、イタリア人以外から初めて総合ディレクターに起用されたジャン・クレールの下で廃止。その後、99年、2001年とディレクターを務めたハラルド・ゼーマンは、このアルセナーレで「アペルト全面開放」と題する企画展を行ない、話題を集めた。
(柴田勢津子)
関連URL
●名古屋 覚「ヴェネツィア・ビエンナーレ」 http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/nmp_j/feature/0724/venice.html
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