「人類の進歩と調和」のテーマの下、1970年(開催期間3月15日−9月13日)、大阪千里丘陵を会場に開催された。いわゆる「万博」はアジアで開催された最初の博覧会であり、77カ国という史上最大の参加国数を擁し、結果、入場者数においても過去最高の数字を記録。丹下健三設計の《お祭り広場》が祝祭ムードを盛り上げ、そのシンボルともなった岡本太郎《太陽の塔》は現在でも会場跡地に聳えている。この博覧会では、目玉となったアメリカ館の「月の石」を持ち出すまでもなく、科学的進歩へのオプティミスティックな信頼感が基調をなし、モノレール、動く歩道、通信システムなどの新しい交通・流通システムが提案された会場はさながら未来都市の実験場と化した。と同時に各国家、企業の示威的なプレゼンテーションの場ともなったため、その開催にいたる道程においては数々の組織的万博批判が噴出していたことも事実である。とりわけ美術を取り巻く状況のなかでその傾向が色濃く、「革命的デザイナー同盟」「建築家'70行動委員会」「万博破壊共闘会議」などのアンチ万博団体が組織され、「反戦のための万博(反博)」をはじめとした示威活動も活発であったが、その背景には共通して70年安保へのイデオロギー的抵抗があり、彼らは万博をその隠蔽装置とみなし、民意と乖離した、産業構造を核とする挙国一致体制と糾弾した。他にナショナリズム、冷戦構造、資本主義へのアンチテーゼが同様のかたちをとって現出した例として、前年学生占拠によって開会不能となったミラノ・トリエンナーレや警備体制のなかでかろうじて開会したヴェネツィア・ビエンナーレなどが挙げられるが、万博の場合は滞りなく開催を迎え、結果的には先述のようなコマーシャル的活況を手にすることになる。ここにおいて「政治の季節」の減速と、啓蒙的意義を建て前とする万国博覧会が商業主義によってその存在の本質を問われた瞬間を同時にみることができる。
(宮川暁子)
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