民藝(Folk Craft)とはその運動を牽引してきた柳宗悦らによる造語であり、「民衆的工藝品」の略語である。この概念に込められているのは、限られたサークルでのみ流通する骨董趣味的な工藝品やハイ・アートとロウ・アートのヒエラルキーをもたらす芸術概念への抵抗感、そしてそのような分野から振り落とされてきた生活の用のために作られた無名の民器の「健康な美」への賞賛である。「用・美・廉」の三位一体を是とする民藝運動は生活と美との総合を唱え、その思想的基盤であった柳はこの概念の普及に尽力するなかで民衆の啓蒙と生活改革、生活工藝の振興を目指していた。民藝館構想はその一派のなかで必然的に生じてきたといえ、具体的に設立に向けて動き出すのは大正15年、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、柳宗悦の連名で設立趣意書が作成されてからである。昭和3年には御大禮記念國産振興博覽會(上野)に、民藝の思想を具現化した小住宅「民藝館」を出品し、後の日本民藝館につながる家屋および家具、工藝の総合的展覧の実験となった。その7年後、大原孫三郎の寄付により資金を得た彼らは駒場に場所を得、翌年に柳を初代館長として「日本民藝館」を開館、現在は二代目館長に柳宗理が就いている。当館は先の「民藝館」同様、工藝と家屋の統合が目指され、設計は柳自身によるもので、棟梁、左官、建具には当時の一級といえる民間職人が採用された。館内には設立に至るまでの長きに渡り彼らが蒐集してきた民藝品、主に、最も日本らしい民衆的工藝品が生まれたとされる徳川時代の古作品、新作の民藝品、民藝思想に影響された工藝作家、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、棟方志功、芹澤介らの作品が展示されている。柳は民衆啓蒙だけでなく職人教育機関としての役割も当館に託していたが、実際のところ民藝思想は意図されたかたちでは一般に普及しなかったといえる。むしろ民藝は彼が批判する骨董趣味と同様の流通ルートのなかで生き残っていくことになる。その理由として、民藝思想がいわゆる「宗悦好み」に過ぎず客観性に欠け、またインダストリアル・デザインの可能性を捨象した結果、皮肉にも民衆の現実的生活から乖離していったことなどが指摘されている。
(宮川暁子)
関連URL
●日本民藝館 http://www.mingeikan.or.jp/
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