日本語の「風景」に相当する英語としてはまず「landscape」が挙げられるが、その語源はオランダ語の「landscanp」にあるという。もちろん、レンブラントやロイスダールといった17世紀オランダ絵画の背景にこの概念を読みとることも可能なわけだが、そもそもlandscapeのscapeとは「逃げること」、すなわち、「風景」の形成は絶えず流動的な空間をどのようにとらえるのかという遠近法的知覚の問題と密接に結びついていることが了解される(この歴史的展開に関しては、K・クラークの『風景画論』[佐々木英也訳、岩崎芸術社、1998年改訂]を参照されたい)。他方、日本にも志賀重昂以来の風景論の系譜が存在し、明治近代文学において「風景」が“発明”されたと論じた柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社、1980)もそのなかに位置を占めている。いずれにせよ、古今東西の風景論に共通しているのは、「風景」はただ存在するのではなく、人間の知覚によって初めて成立する認識論的な機構であるということだ。P・セザンヌの《聖ヴィクトワール山》を一瞥すればその事実が了解されるだろう。
(暮沢剛巳)
関連URL
●P・セザンヌ http://artchive.com/artchive/C/cezanne.html
|