「写真家たちの自主運営ギャラリー」
新宿二丁目の一角にある雑居ビルの薄暗い階段を登り切ると、ガラス戸の向こうに真っ白な空間が拡がっている。周囲の喧噪を一瞬忘れさせるストイックな作りのこの小空間は、今年1月でオープン一周年を迎えるphotographers' galleryの展示スペースである。その名の通り写真家の共同運営による自主ギャラリーとして、この場所で一年間に約20回の写真展を開催し、さらにホームページや冊子出版(「pg press01」今春発行予定)に及ぶ意欲的な活動を展開している。メンバーは2002年1月現在、牛島麻記子、王子直紀、尾仲浩二、帰山大輔、北島敬三、蔵真墨、小出直穂子、笹岡啓子、設楽葉子、渋谷美智子、中尾曜子、中村綾緒、楢橋朝子、元田敬三、本山周平、笠友紀の16名。そのうち北島と元田、さらに昨年後半新たに加わった尾仲と楢橋をのぞけば、ほぼ全員が新人と言ってよい顔ぶれである。
もっともこのような写真家自身の手作りによる「自主ギャラリー」という試みは、何もいまに始まったわけではない。今から20年あまり前には、写真専門のギャラリーはニコン・サロン、キヤノンサロン、富士フォト・サロンなどのメーカー系ギャラリーしか存在せず、実験的な若い写真家が発表の場を探すのは容易なことではなかった。そこで70年代を中心として、こうした状況に不満をもった若手写真家たちが各地で自主ギャラリーという試みをかなり活発におこなったのである。そのほとんどが数年という短期間で失速したものの、なかでも活発な活動を繰り広げていたのが、photographers' galleryと同じく新宿を拠点とした「PUT」「プリズム」「CAMP」である。そこから倉田精二や谷口雅など、東松照明や森山大道の次世代に当たる写真家たちが巣立っていった。photographers' galleryのメンバーの中でキャリアが最も長い北島敬三もまた、76年に森山大道を中心にして設立された「CAMP」に参加し、そこで開催した連続写真展「東京」にあわせて『写真特急便 東京』を刊行した。
それから今日までの間に、写真をめぐる状況は一変した。80年代以降、写真は美術にとって好都合な素材として活用され、写真自体も作品として美術館に収集・展示されるようになった。徐々にではあれメーカー系以外の写真専門ギャラリーが台頭するのに応じて写真を扱う美術ギャラリーも徐々に数を増していった。そして90年代になると「写真新世紀」や「3.3m2展展」などといった公募展が新人の登竜門として活況を呈し、そこから佐内正史、HIROMIX、蜷川実花ら多くの若手写真家が華やかにデビューを果たした。そしていま、インターネット上にはみずからの作品を発表する夥しい数のギャラリー・サイトがひしめいている――。
もはや一部の特権的な写真家が発表の場をもつのではなく、誰もが手軽に小さな発表の場を持ちうる時代。そんな中、あえて自主ギャラリーを運営することの意味はどこにあるのだろうか。photographers' galleryのホームページによると、彼らは「活発なコミュニケーションをとおして、よりアクチュアルな場所=メディアであること」を目指しているという。つまりそれは「反メジャー指向の写真家たちのきわめて閉鎖的な、スイート・ホーム・ギャラリー」(金子隆一・島尾伸三・永井宏・編『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン 1976-83』東京書籍、1989年)とは異なり、かつてないほどにメディアが氾濫する21世紀初頭の写真状況において、写真家が作品をつくり発表するということのアクチュアリティを改めて確かめていくための場なのである。
では、アクチュアルであるとはいったい何か。まず現実的な問題として、大抵のギャラリーで展示をおこなうにはいまなお最低半年はかかると言われている。公募審査を経る場合はなおさらである。さらには審査に受かるためにも、ギャラリーに展示する際にも、作品の大きさやクオリティーにはとどまらない様々な制約が存在していることは、それぞれの公募展やギャラリーがもつ傾向に明らかに見て取れる。そのように、一見多様化しているように見える状況でありながら、「傾向と対策」とまで言わずとも、作品がこうしたプロセスの中で場=メディアをおのずと表象してしまうということは、また否定できない事実なのである。
だがそれは、アクチュアルではない。アクチュアルであるためにはまず、みずからメディアを作らねばならない、と北島は言う。つまり特定のメディアに拘束されるすることなく、自由に作品を発表するためには、自分で新たなメディアを作り出す必要がある。メディアが氾濫するがゆえに新たにメディアを作り出さざるを得ないというこの皮肉な状況は、メディアが絶対的に不足していたために自主ギャラリーが生まれた時代とは、まさに対照的である。 その意味で、photographers' galleryが、いわゆる集団が陥りがちな党派性や馴れ合いを避けるかのように、個人のゆるやかな集合体として運営されていることはきわめて整合的である。実際、メンバーによる作品の展示だけではなく、企画展やレクチャーなども計画している。photographers' galleryというその名前も、できる限り特定のメッセージや主張を含まないことから選ばれたという。したがって、一年間にわたるその展示全体から何らかの傾向を導き出したり完成度を論じることは、たとえ可能ではあっても、現時点で有効であるとはあまり思われない。ただ少なくとも、ほぼすべての展示がよく練られた展示構成とも相まって、誰に媚びることなく本当にやりたいものを自由に見せることができることへの潔い緊張感を漲らせていたということは、やはり新鮮な経験として特筆に値するだろう。
だがこのようにアクチュアルであろうとするphotographers' galleryの試みは、きわめて両義的なものでもある。既存のメディアに拘束されないために作り出した場は、ともすれば新たな規範としてみずからに働きかねないからである。だからそのためには、ただやみくもに疾走するのではなく、徹底的に醒めた目をもってみずからをしたたかに変え続けていく必要があるだろう。はたして彼らはどこまで自分たちに対する幻想を打ち砕きながら、その危機感を写真行為に結びつけてゆくことができるだろうか。アクチュアルであることをめぐる写真家たちの葛藤は、ここにおいてすでに始まっている。
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蔵真墨「love machine」2002.1.12-1.28 |
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