芸術/建築/デザインは時代の新しい環境にどのように対応するのか
芸術工学は慣例的に英文では Designと表記する。
デザインとは本来謙虚な概念である。いわゆる芸術系教育とは異なって、絵画や彫刻といった自己表現から始めるのではなく、環境の理解から始める。環境と新たにそれに付け加えて作り出すモノの姿やありかたを批判的に構築する。モノに形を与えることが最終の目的ではなく、モノが機能と実用を満たし、ハンドリングしやすく、環境に負担をかけないような姿に収めるのである。
このような「デザインの学府」を標榜して作られた芸術工科大学が何校も創出され十数年を経ているが、最近元気がない。発端となった九州芸術工科大学は九州大学との合併が決定したようだ。バブル期に売り手市場だったこれら大学の「建築系」の就職先も確保できないことにひとつの要因があるようでもある。もともと「建築」学科は芸術と工学を総合する学としてあり、工学系大学以外に芸術系の大学にもあった。芸術工科大学では「環境デザイン」としてその方向が明確化されていた。その後他の大学にもこの名称が定着した。建築のあり方そのものを批評的に捉えるためである。
実は元気がないのではない。「芸術工学」系の大学で今取り組まれているのは、デザインが対象とする「環境という概念」のパラダイムシフトへの対応である。建築を環境デザインに置き換えて、世界のパラダイム転換へ対応したように、さらなる環境の変化への対応策に追われている、というのが実情だろうか?「環境デザイン」を一言で片付けてしまうわけにはいかないが、その学問の領域を追求すればするほど広がってしまい、プロフェッションとして確立するにはまだまだ時間が必要とされそうなことがわかってきた。思ったより奥が深いのだ。端的には環境がビジネスになりにくいことが判明している。京都会議以降、ますます環境に対するアクティブなプランが出されなくてはならないが、学の側からの積極的なアイディアやアクションはしばらく時間が必要なのである。これらはボランティアベースでの動きが一歩先を行っているような感もある。
一方、「バーチャルな環境」をかたちつくる情報技術。この領域では技術偏重、技術志向に対する、いわゆる芸術志向、つまり「コンピュータ・アート」やコンピュータ・アーティストの生産が試みられてきた。10年を経ずしてネタ切れの感がある。かつての芸術の枠からの絵筆を持ち替えただけといえなくもない。この手の国際美術展に日本人アーティストが常連化していることは逆の見方をしなければならない。たとえば東京芸大の先端芸術表現科が、一方でローカルなコミュニティにコミットし、「参加」の方法を探り続けているのは、芸術が新しい環境の中で意味を持ちうるかどうかを問う、という根源的な戦略である。
情報技術に関連した「ユーザスタディ」「インタラクション・デザイン」の領域において、芸術工学系の大学はその存在価値を今、問われているのではないだろうか。情報技術は一部の人間だけが享受するものではなく、老人から子供までがその中に住みつく環境になっているのであるからだ。よりダイナミックな活動領域が広がっているのである。
ロンドンのRCA(王立芸術大学)は芸術工科大学、つまりデザイン系の単科大学ではなく、芸術・建築・デザインを扱う総合的な大学院大学である。この大学はロン・アラッドやジャスパー・モリソンなど家具デザインやプロダクトデザインのスーパースターを数多く生み出しているが、6年ほど前からCRD(コンピュータ・リレイテッド・デザイン)を開設し、コンピュータと環境・コミュニケーション、情報空間とリアルな空間のインタフェイスやインタラクションを専門的に扱うようになった。
考えてみれば、コンピュータをオフィスや書斎から持ち出し、電車の中や路上、カフェでひっきりなしに用いて生活する我々の環境は、室内におけるハードウェアのデザインだけでコントロールできるものではない。もっとダイナミックなコミュニケーション環境の中にある。また、このジャンルは技術の革新と、ユーザによるユーザビリティの開発のスピードがけた違いである。女子高生のケータイ術を例に挙げるまでもないだろう。
そのような環境の中で、 CRDを率いてきたギリアン・クロンプトン・スミスらは、北イタリア・イブレア(オリベッティの企業城下町)に「インタラクション・デザイン・インスティテュート」を昨年開校した。ここでは情報技術とネットワークによって出来あがった環境をわれわれが生きる環境の前提とする。「芸術工学」のパラダイムシフト後のあり方は、クロンプトン・スミスといくつものプロジェクトを共同してきたダンとレイヴィは、すでに地球上に張り巡らされている電磁波環境(ヘルツィアン・エンバイロメント)のなかで、建築やデザインを行なっている。彼らの作業がひとつのヒントになろう。そこにはデザイナーが作品を自己表現として発表するという姿勢に変わって、「ユーザスタディ」や「リテラシー」を尊重する。必ずしもプロダクトが最終目標ではない。新しい環境へのユーザの対応、すなわちインタラクションを発見すること、デザインすることなのである。
私の属する神戸芸術工科大学では、今年度から大学院をベースに学科専攻の枠を縦断し、複数のプロジェクトを立ち上げ、ワークショップを織り込み、研究やスタディだけでなくさまざまな環境の中での実験、シミュレーションをもくろんでいる。よりリアルな環境と「ユーザスタディ」のためだ。リテラシー(デザイナーのための一般教養とでもいったらよいか)とデザイナーのユーザへの参加といった高度な実習が同時並行的に行われるのである(今年度は応用幾何学を客員教授カスパー・シュワーベが担当)。
デザインの役割は環境の中に、そしてユーザのふるまい(インタラクション)のなかに移動しているのである。これへの対応は芸術、工学、あるいは情報技術だけでは不可能である。よりしなやかで、すなおな感性が必要とされている。
http://www.zeit.de/forest/people/fiona_tony/
[すずき あきら 神戸芸術工科大学教授・建築批評]
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