|
最近、思うこと 村田真 |
大型展の隆盛が良質の企画展を駆逐する 最近「おもしろい展覧会が少なくなった」という声をしばしば耳にする。私は恒常的に、というより惰性で月30〜40本の展覧会をゴキブリのごとく近視眼的にながめているせいか、「低温火傷」のようにつまらなさに慣れてしまったのかもしれないが、いわれてみればたしかにそうだ。つまらない理由ははっきりしている。景気が低迷している。 景気がよくないといっても相変わらず大量動員をねらった大型展は盛況らしい。昨年の「プラド美術館展」(国立西洋美術館)には52万人が入ったというし、「ニューヨーク近代美術館名作展」(上野の森美術館)は37万人、「マルク・シャガール展」(東京都美術館)は36万人が訪れた。西洋美術だけではない。「雪舟展」(京都国立博物館、東京国立博物館)は東京だけで30万人を突破、京都と合わせて50万人以上を集め、「横山大観展」(東京国立博物館)は28万人を動員した。1日平均1万人である。 数を見る限り不況などどこ吹く風だが、これらはいずれも新聞社などのマスコミ企業が共催し、宣伝力にものをいわせて大量動員をかけたものだ。つまり、不況にもかかわらず大型展が盛んなのではなく、不況だからこそ確実に人の入る大型展に頼らざるをえないのだ。 問題は、予算の乏しい美術館がこうした大型展の数の論理に押されて、学芸員本来の地道な調査研究の発表や実験的な試みを実現しにくくしていることである。そして私(たち)が「おもしろい展覧会」と評価するのは、まさにこうした学芸員たちの意欲的で良質な企画展にほかならない。 それはたとえば、練馬区立美術館の「近藤竜男展」、いわき市立美術館の「中村一美展」、栃木県立美術館の「小山穂太郎展」といった現役作家の個展であったり、三の丸尚蔵館の「細工・置物・つくりもの」、新潟県立近代美術館の「小山正太郎と『書ハ美術ナラス』の時代」、姫路市立美術館の「戦争と美術」といった近代の見直しであったり、三鷹市芸術文化センターの「オフロ・アート」、大分市美術館の「アート循環系サイト」といったキワモノであったりする。まだまだほかにもあるだろうが、これだけでも地方の中規模の公立美術館が多いことに気づく。しかしこれらの企画は往々にしてポピュラリティに欠け、地方であることも災いして大量動員は期待できず、いまや風前の灯といっていい。 不況は大規模な予算を消費する大型展を生き残らせ、逆に低予算の良心的な企画展を圧迫する。こうしてポピュリズムに支えられた大型展志向は、美術館をますます思考停止に陥れ、貸し会場化させていく。貧すれば鈍するである。 美術館が「美術館」をテーマに そんななかで最近おもしろいと思える傾向に、美術館が「美術館」そのものをテーマにした展覧会がある。これは欧米の美術館ではしばしば見られるが、美術館自体が成熟していない日本では2-3年前まではほとんどなかったことだ。いわば美術館の自己言及化である。 一昨年には、休館中だった東京国立近代美術館が東京国立博物館の表慶館を舞台に「美術館を読み解く」を開催。国立国際美術館でも「主題としての美術館」が開かれた。いずれも国立美術館の企画であり、この年から独立行政法人に移行したため、美術館という存在をもういちど見直そうとしているのかと思われた。 ところが昨年になると、この動きは公立・私立の美術館にも波及していく。兵庫県立美術館の開館記念展「美術館の夢」は日本の美術館の成立過程をたどり、ブリヂストン美術館の開館50周年記念展「コレクター石橋正二郎」は自館の創設者に焦点を当て、埼玉県立近代美術館の開館20周年記念展「美術館物語」は、コレクションの鑑定書や作品の輸送ケースといった舞台裏まで公開するものだった。いずれも節目の年の記念展ならではの企画といえる。従来の展覧会が「美術館」という枠を前提に成り立ってきた「フィクション」であるとすれば、これら「自己言及展」はその前提を問い直す「ノンフィクション」、あるいは「暴露もの」といってもいいかもしれない。 美術館そのものをテーマにするわけではないが、自館のコレクションを素材にした企画展も増えている。これもやはり海外でよく見られる傾向だ。 たとえば、静岡県立美術館の「今、ここにある風景」は、大岩オスカール幸男や吉田暁子ら若手作家の作品と、彼らがコレクションのなかから選んだ作品を並べるもの。残念ながら見られなかったが、萬野美術館の「プライベート・ラグジュアリー」も同様の企画だし、大原美術館の「有隣荘・福田美蘭・大原美術館」は福田美蘭が同館のコレクションをテーマに新作をつくったという。また美術コレクションではないが、マーク・ダイオンが東大の自然科学コレクションから取捨選択して構成した、東京大学総合研究博物館小石川分館の「驚異の部屋」もここに含めていいだろう。 これらの展覧会で対象となったコレクションは、レンブラントやロダン、円山応挙や安井曽太郎ら巨匠クラスの古典的な作品であり、そこにからむアーティストは現代美術家である。ふだんは出会う機会の少ない両者をつなげることで、古典と現代の双方に新しい見方を提供し、同時に異なる客層を呼び寄せようというもくろみもあるかもしれない。 このようにコレクションを活用してひとつの企画展に仕立て上げる試みは、限られた予算のなかでの苦肉の策ともいえるし、また、等閑視されがちな常設コレクションに目を向けさせる効果もあるだろう。いずれにせよこれらは、海外のコレクションに頼りがちな「大型展至上主義」に対するささやかなカウンターパンチでもあるのだ。 森美術館と「ナショナル・ギャラリー」の共通点 今年いちばんの期待は、10月に予定されている森美術館の開館である。港区六本木6丁目の再開発地区、六本木ヒルズの森タワー最上階(52-53階)に位置する展示面積約3,000平方メートルという大規模な美術館だ。館長に、オックスフォードとストックホルムの近代美術館館長を歴任したデイヴィッド・エリオットを迎え、オープニング展は「ハピネス―今を生きるために」と決定。その詳細についてはいずれ紹介するつもりなので、ここでは触れない。 問題は、この六本木ヒルズから北へ500メートルたらずの東大生産技術研究所跡地に、2006年度の開館をめざして文化庁が「ナショナル・ギャラリー(仮称)」の建設を進めていること。黒川紀章の設計で、総工費は約350億円。延べ床面積は約45,000平方メートル(うち展示面積は約14,000平方メートル)というから、大きさだけでいえば森美術館をはるかに上まわる。このふたつが完成すれば六本木はアートの新しい拠点になるだろうといわれている。 ほんまかいな。 すでにごぞんじの方も多いと思うが、この「ナショナル・ギャラリー」、まだ仮称とはいえ、名前からはロンドンやワシントンと同様の本格的な美術館を想像させるが、中身は似ても似つかぬシロモノ。要するに東京都美術館と同じく、日展や院展などの公募展、および新聞社などが主催する大型展のための巨大な「貸し会場」なのだ。しかもコレクションはいっさいなし、学芸員もほとんど採らないという。それが「ナショナル・ギャラリー」を名乗るとしたら「僭称」以外のなにものでもなく、多くの人々(とりわけ六本木に多い外国人)の誤解を招きかねない。 いや、たしかに国の施設だし、日展や院展の作品はインターナショナルではないのだから、「ナショナル・ギャラリー」でも間違いではない。だが、より正確にいえば「ナショナル・レンタルギャラリー」、もしくは「ドメスティック・ギャラリー」とすべきだろう。 ともあれ、伝統を重んじる公募展中心の「ナショナル・ギャラリー」と、領域を超えた先端的なアートを紹介していく森美術館とでは観客層はほとんど重ならない。したがって両館が出そろったところで相乗効果はあまり期待できず、ふたつ合わせて「アートの拠点」というには無理がある。 余談だが、私は日展や院展の作品を否定するものではない。形骸化した公募団体システムはともかくとして、その作品は批判を含めてむしろ本格的に論じられてしかるべきだと思っている。ちょうど19世紀フランスのサロンの画家たちが一時すっかり忘れ去られたにもかかわらず、再び研究対象として見直されているように。実際、私にとって日展ほど興味をそそる展覧会はない。もっともその興味はいまのところ「異文化」に対する好奇心から来るものだが。 話をもとに戻そう。森美術館と「ナショナル・ギャラリー」とは活動方針こそ対照的だが、大局的にながめれば実は決定的な共通点がある。それは、両者ともコレクションをもたない「展覧会主義」だということだ。 そもそも美術館とはコレクションから始まり、コレクションを一般公開することで成り立った制度である。極端にいえば、すぐれたコレクションさえ常設していれば企画展など必要ないのだ。だからコレクションをもたない美術館は本来「美術館」とは呼ばない。そこは「ナショナル・ギャラリー」を推進する文化庁も心得たもので、ホームページには「美術館」とはいっさい謳わず、「新国立美術展示施設(ナショナル・ギャラリー)(仮称)」となっていた。 とはいえ最近、コレクションをもたない美術館がどんどん増えているのも事実。だがそれは、莫大なコレクションを誇る大美術館がひしめく欧米ならまだしも、もともとコレクションが貧弱なうえ、最初の公立美術館である東京都美術館が「貸し会場」として出発した日本では、借りてきた作品で展覧会を打ち続けるのが美術館だと勘違いしてしまいかねない※。 コレクションがパーマネントにあれば作品との対話が生まれ、新たな創造をうながす。その積み重ねが文化というものだ。一方、テンポラリーな展覧会は打ち上げ花火みたいなもので、そのつど刺激や快感を与えてくれるかもしれないが、文化は蓄積されにくい。もっとも、次々に刺激や快感を与えて文化を消費していく美術館というのも、いかにも六本木らしいが……。 ※これを書いたあとで、文化庁が名称を募集していることを知った。筆者としては怠慢のいたりだが、そのチラシによると「独立行政法人国立美術館の5番目の組織のなる予定です」とあり、組織上はやはり「国立美術館」の位置づけである。 朝日新聞「回顧2002美術」2002年12月12日夕刊、日経新聞「美術館受難と再生(5)ナショナル・ギャラリーの行方」2002年5月31日を参照しました。
[むらた まこと 美術ジャーナリスト]
|
|
|||
|
|||
|