光岡さん、こんにちは。そして、面白い視座をありがとうございました。
「公民館」という名前がいいなと思ったのは、前のブログでも書いていたような、雑多性です。社会教育法第22条本文でもそのなんでもありな、いい加減さがしっかり明文化されていて、とてつもなく魅力的です。最近は、「公民館」という場所が、「生涯学習センター」的な、より特化した目的を示す言葉に取って代わられているようですが、こうなると面白みがない。「公民館」が身近にある地域で育った人には、ただの貸しスペース、町内のおっちゃんやおばちゃんが集まるださい場所、というイメージしか想起させないかもしれませんが、公民館というものがない地域で生まれ育った人間にとって、この言葉が連想させる曖昧な可能性(もしかしたら日本語の曖昧さ)というものに惹かれます。
あと、「公民館」を「public and private center」として考えてみるのは面白いです。「公民館」の「民」という言葉が、「人々」であると同時に「私的」という意味も含みえるという指摘は、なるほどと思いました。「私的」な人たちが集まってつくる公的なセンター。勝手に解釈すると、「私的」な人間が集まることで出来上がった場所であっても、ある一定数の「私的」人たちが運営に直接的、間接的に参加することで「公的」性格を持ちうる。逆を言えば、そこに「民」という言葉が入っていなくとも、行政が管理している「公的」施設も、「私的」な人間の集まりである市民が、間接的にその運営を行政に任せているという点で、公的機関も「Public and private center」たり得るんじゃないでしょうか?私的な場所でも公的になりうるし、公的なものでも私的になりうる。
こう考えることで、「私的」な人たちが持ち込んでくる極端な表現やマイノリティーな政治思想、ライフスタイルに関する新しいアイデアをばしばし、紹介していけるのではないか、という期待があります。当然、他の「私的」な人から、文句や苦情がでてくる。その時は、他の「私的」な人たちも、匿名の電話やメールを通してではなく、反論や別のアイデアを堂々とプレゼンテーションしたらいい。選挙で信任された政治をもとにした、行政による管理・運営という「公」は担保されていなくても(異常に低い投票率と、政治と行政の分離がここまで進むと、この考え方も疑問ありですが)、この一連のやり取りが起こっていくことで「公」の要素を持ちうるのではないかと思いました。