参加者と主体者

「プライベートな所有の保証自体が公共性の基盤なのであり、逆に公共性もまたある集団の私有する社会圏域だとも言えるわけです。ここでは、例えば公設民営の文化施設などという際の「公私」の二項対立は機能せず、むしろお互いの概念がお互いを支えるという意味では不可分な概念です。」(前回の光岡さんのブログより)
公的施設では、「公共性もまたある集団の私有する社会圏域」であるという認識が、私的施設では、「プライベートな所有の保証自体が公共性の基盤」であるという認識が現実社会では成立していないように思えます。どうしてそうなってしまったんでしょう?そしてそこに向かっていくには、どうしたらいいでしょう?

話は少しそれますが、「公民館」というアイデアがいいなと思ったもう一つの理由を書いておきます。
最近友達にベルリンにあるアートセンターの話を教えてもらいました。そこで毎年開催される数回の展覧会は、センターの800人程度のメンバーが企画、実施するらしいです。毎年、メンバーが企画を応募し、選ばれた企画をセンターのスタッフと一緒になって実現させていく、という方法を採用しているようで、スタッフは展覧会の内容に関連するレクチャーを開催したり、関連展覧会を見に行くツアーを組んだり、どちらかというとファシリテーター&メディエーターの役割を担っているようです。この展覧会を作り上げるメンバーの人たちはもはや「参加者」のレベルではない、主体者ですね。

この話を聞いたりして、参加者とは一体なんだんだ?と考えています。これまで私はワークショップやレクチャーをたくさん企画・運営してきました。そして、世の中には、大学、美術館等の文化施設、アートプロジェクト等々、参加者やボランティアを求める(取り合う?)イベントに事欠きません。こういうイベントで募集されている参加者は、参加者から主体者になっていくことが前提とされているのか、それとも参加者が参加者として留まることが前提とされているのか?参加者が主体者になるということは、ベルリンのアートセンターのスタッフのように、肩書きやヒエラルキーを放棄しなければ成立しない。一方で、参加者が参加者に留まることが無意識であっても想定されている場合、企画者と参加者とのヒエラルキー関係は補強され続けていく。「一歩を踏み出すきっかけ作り」や導入的なものは、果たして「きっかけ」となり導入になっているのか、最近かなり疑問に思っています。自分自身の経験として、中途半端な参加を促すイベントは内容を深めていくことができず、結果的に常に導入的な内容しか開催できないという悪循環が生まれます。そして、こういう仕事に関わる人が多かれ少なかれ考えていることかもしれませんが、そういうイベントを企画し続け、どんどん疲弊していく。中途半端な企画者という立場に、割と満足していたんじゃないか、自分の過去の仕事に対しての反省があります。

(ワークショップ等の参加を前提にしたイベントが多くなってきた背景として、一部の人だけに特権的に受容されてきた文化を広く多くの人に還元するという目的と、参加者の数等、目に見える結果が文化施設やフェスティバルでも求められるようになってきたという実情があるのだと思います)

「公民館」に話を戻すと、「公民館」的場所には企画者と参加者というヒエラルキーがない。何かを企画したい人が、勝手に主体者となって、自主的にオーガナイズする。そういう人たちが集まってできる、そういう人たちのための「公民館」的な場所に希望を託しています。最初はいろんな使い方をみてもらうために、私たちが企画していくことも多くなるとは思うのですが、結果的に自分たちも使用者の1人になることができればいいなーと思ってます。普段はウェイトレスと管理人をやりながら、これは!と思う人やアイデアがある時はぶいぶい前にでていくというスタンス。こんな道を模索していきたいです。

ブロガー:須川咲子
2010年6月16日 / 00:28

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