6月27日に秋吉台国際芸術村で出張hanareを行いました。そのプログラムの詳細はこちら。
当日は定員予定人数を大幅に超えて、35名ぐらいの方が大雨にも関わらず集まってくれました。用意したご飯も飲み物も足りなかったのですが(すいません!)、九州も含めたあの周辺地域に住む人たちが、より多くの人に会うことができればと、「申し込まれた方は全員参加」のポリシーでいきました。
嬉しかったのは、集まった人の多様性。子育てサークルを主催する人から、地元のお店の人、退職後に家を解放して何かやってみたい人、アーティスト、ギャラリーオーナー、限界集落で就農した人、YCAMのスタッフ、大学の教員と学生、シェフ、福岡のtetraの人、公民館の職員、市民活動をやっている人たち等々。こんなに多様な人たちが一同に会するのは秋吉台始まって以来の出来事のようで、とにかくこの雑多性をまずはみんなで肯定したいと思いました。どうしようもなくかっこいいプロジェクトは生まれてくるとしたら、この日のように、いろんな分野のいろんな立場の人が集まる場所からだと思います。
さて、ファシリテーターとして私の力不足が多分にあり、そしてまさかの落雷によるネットサービスのダウン→予定プログラムのスカイプが中止というアクシデントがあったので、この場を借りてプログラムの補足ができればと思っています。
まず、中止になったサミとヤエールのスカイプの中継について。
彼ら2人に「あなたのコミュニティーは何ですか?」「あなたが一緒に活動しているコミュニティは誰ですか?」という質問をすれば、イスラエルのヤファという地域に住むパレスチナ人コミュニティであったり、ロシア等の国からの新規移民の子供たちや女性たちという、ものすごく明確な答が返ってきます。民族、宗教、政治的、社会的、経済的立場が理由で、社会から疎外されている人たちが、細かい差異はひとまず脇に置いておいて、疎外されている要因となっているアイデンティティ(サミの場合はイスラエル在住のパレスチナ人)のもとに集まり、政治的、経済的プレゼンスを勝ち取っていくためにコミュニティの形成活動が位置づけられている。サミの場合、ヤファ地域のパレスチナ人コミュニティが団結しても、テルアビブの市議会に議員を1人送り込めるかどうかというぎりぎりの環境で活動を続けているので、コミュニティがまとまるかどうかは死活問題だと、言ってました。
翻って、私が同じ質問を受けたら、「社会を面白く変えていきたい人がなんとなく集まってる」というような曖昧で、ぼんやりした回答しか出てこないし、hanareの周囲を見回した時、それだけで集約できるような大きなアイデンティティやストーリーはない。そして、これは当日参加していた人にとって多かれ少なかれ共通していることかもしれません。派遣労働や有期雇用のこと、子育てのこと、ジェンダーのこと、芸術文化に関わること、なんとかしたいこと、何とかしなければならないことは周辺には山ほどあるけれど、それだけで全員をまとめあげるようなものではない。周りにいる人たちの生活から浮かび上がってくる個別的な事情を1つ1つ拾い上げ、そうすることで何となくの共同体を作っていくような方法しか、今のところ持ち合わせていない。
サミのケースでいうと、今優先されている課題、この場合、イスラエルの在住のパレスチナ人がイスラエル人と同等の政治的、経済的プレゼンスを勝ち取った段階で、それまで大きなアイデンティティに隠れていた(取りこぼされていた)アイデンティティ(例えば女性や性的少数者の人たち)が次々と出現してくると思う。そうなった時、より細分化されたコミュニティが生まれ、結果的にそれぞれのコミュニティが分断されるような状況が生まれることも考えられる。一方、hanareのような日本的ゆるゆるアプローチでは、個別的でミクロな事情に対し差し当たりの解決策は見つかったとしても、それが個人的なレベルに留まってしまうことで、その根本的原因が可視化されず、大きく社会を変える流れになっていかない可能性が高い。
この日考えたかったのは、サミのケースのようなコミュニティの形成の仕方と、個人のミクロな事情に出来る限り寄り添うようなコミュニティ形成のあり方が合わさった方法は見つからないかな?ということです。日本の中にもサミのコミュニティのように、あるアイデンティティの元に集まらざる得ないコミュニティがあり、そういうコミュニティの人たちと一緒に動いていく流れと、小さなストーリーを1つ1つ救い上げることで形成される共同体の流れ、その2つの方向性が混じり合ったような、コミュニティ形成の方法を考えたいと思ったのでした。
最後に、秋吉台芸術村という芸術施設でコミュニティの話をしたかった理由を2つ。
これまで素晴らしいと思った、主に西洋圏で実施されてきたコミュニティアートプロジェクトは総じて、サミのケースのような「ぼんやりしていないコミュニティ」を対象としたものでした。Wochenklausur*1のようなアーティストがそういうコミュニティに入っていき、クリエーティブなツールを総動員し、そのコミュニティが直面している不利益を表象の上でも、現実社会のレベルでも、構成員の人たちと恊働しながら変革することをアートと謳うプロジェクト。そういう「ぼんやりしていないコミュニティ」から生まれるプロジェクトを念頭に置いていたので、日本で起こっているコミュニティアートプロジェクトの「ぼんやりさ」にいらいらしてまいした、正直。ただ、それはプロジェクトがぼんやりしているというよりは、hanareの例然り、舞台となるコミュニティそのものが「ぼんやり」しているという事実に尽きるのかもしれない。ただ、その「ぼんやりさ」が肯定的要素に転換可能であるとしたら、それは大きなアイデンティティに頼れない「ぼんやり」コミュニティが、大きなアイデンティティに頼らざる得ない人たちと何らかかの形で繋がれる時なのではないかと思います。その繋がりが生まれた時、より重層的で複雑なコミュニティアートプロジェクトが生まれるのではないか?と密かに考えてます。
もう一つ。「他では許容されない質問が提起され、批評的な分析がきっちり存在しうる、開かれた場所」、「特権的に表現の自由が保障されている領域」*2というアートの役割が、芸術を扱う公的施設に存在するのかどうか、こういうテーマを持ち込むことで確認してみたかったのです。だから、当日の話の流れで、「大学における言論の自由」「結社の自由」「私たちにとって政治とは何か」というような話が当たり前に出て来たことは、大事だと思います。こういうことは訓練が必要なことなので、それぞれの地域の公的芸術施設でどんどん試してみましょう!
そいうわけで長い報告でした。
*1Wochenklausur オーストリアをベースに活動するアーティストグループ。ヨーロッパ各地で、強制退去を待つ人たちのための施設の状況改善や、ドラッグ中毒の女性のためのシェルター建設等のプロジェクトを実施。http://www.wochenklausur.at/projekte/menu_en.htm
*2Kester, Grant H., Conversation Pieces, University of California Press, 2004, p.68.