気がつけば7月も後半、いきなり酷暑に見舞われていますね。この2,3日、残りの期間で何を書いておくべきなのかを考え続けています。もう一度hanareさんの公民館論についても言及しておきたいし、アートと「公共」というテーマに関してももう一つ論点を残しています。今日は、後者の論点についてふれておきます。
昨年の晩秋に、横浜のZAIMでキュレーターの遠藤水城さん、辻憲行さん、表象文化論の星野太さんとトークをした際に、会場から横浜国際映像祭に関連して、展覧会はいかに公共性を具現化できるかといったご質問がありました。この問いに関しては僕がお答えしたのですが、この「問い」は、現在展覧会や地域でのアートプロジェクトに携わる方にとってはクリティカルな論点を含んでいると思っています。
第一に、「理想的」な公共性の反映・実現は可能かという点です。例えば、ハーバーマスの場合には近代初期のコーヒーハウスに集う知識人の自由な議論の過程から生まれる「公共性」に可能性を感じていました。ハンナ・アーレントであれば、留保つきではありますが、ギリシャのポリスに理想的な公共性を見出そうとしていたと言えるでしょうか。ただ、そのような理念型を論じることが可能だったのは、二人が、理想的な公共圏が失われた「現在」を生きていたからです。つまり、目前にある公共性の危機から、遡及的にしか「理想」としての公共性を想起することができなかったと解釈することは可能なはずです。その意味では、「理想的」な公共性は、歴史的には存在したか存在していなかったのか自体が問えない闕値として存在しています。ゆえに、おそらく私たちが考えるべきなのは、「理想的な唯一の公共性(the ideal public sphere)」の実現ではなく、諸制約が課されるプロジェクトにおいて「可能な一つの公共性(a possible public sphere)」のはずです。
第二に、そもそも公共性を意図して実現するのは困難なのではないかという点です。以前ハーバーマスに関しては、公共性はそもそも公共圏という空間概念であることを紹介しました。ただそれ以上に、僕は「公共性」は事後的にしか発見できない概念だと考えています。ハーバーマスの強い信頼は、理性に基づく主体同士のコミュニケーションの先に人々は合意形成を行うことができるという点に置かれていました。巨大なメディア産業による「公共性」の変容をハーバーマスが危険視した一因は、この合意形成のプロセスが歪曲されると感じたからです。その意味では、人々が平等に参加しその議論の透明性が担保されるプロセスが維持され続けている時、ある時点で初めてここには「公共性」が宿っているという気づきが生じるのではないでしょうか。ゆえにこの意味でも、公共性を実現するなどと最初から考えるはおこがましい。というのも、私たちにできるのは、合意形成のプロセスの透明性を維持し続ける努力だけだからです。
この点は、今年各地で開催される地域型アートプロジェクトに参加する方にも留意して頂きたいと考えています。プロジェクトの総括を行う公開シンポジウムで、ただ「公共性」が実現されていないと批判するのはもう卒業したいのです。それは、3割以上は後出しジャンケンに過ぎません。もし彼女/彼がそう思うのであれば、いかなる合意形成の過程での不備がその事態を引き起こしたのかを批判、検証して欲しい。特に、参加者(ボランティア)や来場者は、プロジェクトの一端しか見ていない(/見えない)こともしばしばだからです。現状の限界をただ批判するのではなく、その限界を生みだす構造的な問題を送り手と受け手が共有できる時期にきていると感じています。その意味でも、「公共性」をゴールにすることは禁欲しましょう。それを可能にするかもしれないプロセスにこそ、私たちの限られた資源を投入すべきはずですから。