いまや村上以上に日本の現代美術の将来を案じている作家はいないのでは? 筆者からみると、かれの戦略は、サブ・カルチャーのヴィジュアル表現ですこし知名度があるものを、いわば「村上的なもの」(かれ自身のことばでいえば「PO+KU」なもの)としてすくいあげ、それによって現代美術の外延を拡張し、さらに現代美術をポピュラーなものにしよう、というものだ。ところが村上本人の「現代美術」は、「村上的なもの」、たとえばチャッピーや町野変丸に、知名度の点でついに勝てない。現代美術がポピュラリティを得るためなら、自ら道化になることも辞さない村上に、なんだか悲痛なものを感じる。