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Artscape Book Review
暮沢剛巳
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現代美術という閉域を超えて

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ロザリンド・クラウス『ピカソ論』
「ピカソ論」表紙写真
ロザリンド・クラウス
『ピカソ論』
松岡新一郎訳、青土社、2000

多くの読者は「ピカソ論」と聞いて、「またかよ!」と思うかもしれない。なるほど、20世紀絵画の代名詞とも呼ぶべきこの巨匠には、既に膨大な数の紹介や注釈が試みられており、小学生ですらその名を知らぬ者の方が少ないくらいだろう。今また「ピカソ論」と言っても、もはや食傷気味という反応が出てくるのも無理からぬ話には違いない。だからと言うべきか、昨年の夏にロザリンド・クラウスの『ピカソ論』が翻訳進行中というニュースを耳にした私は、逆に心が躍ってしまった。もちろんそれは、手垢のついた巨匠を敢えて批評の対象として選択したクラウスが、どのような論を展開してみせるのか、不思議な期待感を抱かされたからである。そのニュースを耳にしてからちょうど一年、ようやく日の目を見たこの書物は、そうした期待を裏切らぬ意欲作であった。本書は一応伝記という体裁を装っているのだが、そこは『October』派の論客であるクラウスのこと、ただピカソの年譜をなぞるだけの伝記をものにするはずはない。実のところ、伝記とはいっても本書の議論は1910年前後、すなわち、美術史一般では分析的キュビスムから総合的キュビスムへの移行期とみなされている時期へと集中しており、クラウスはその伝記的事実を、ちょうどこの時期のピカソが絵画を「自動生産」するキュビスムのメカニズムに怯え、それが原因で古典絵画の剽窃へと転じたのだという独特の持論へと読み替えていく。この強引な解釈が、作者が作品を生産するのではなく、逆に産み出された作品が事後的に作家を規定していくという作家/作品の転倒という議論の伏線となっていることは、「ピカソのために一ペニー」「記号の循環」といった章題からも窺い知れる。
いかにもポストモダニストの面目躍如といった論理の展開だが、もちろん作家/作品の転倒といった図式そのものは、他にも多くの類例がありとりたてて目新しいものではない。にもかかわらず、クラウスの議論がなおも新鮮に映るのはそこに精神分析が慎重かつ的確に援用されているからだ。それは、ピカソの伝記的事実とフロイトの反動形成概念を周到に接続し、1910年前後に訪れたピカソの怯えが、一種の去勢不安でもあることを明らかにすることによって果たされる。この解釈が極めて的を射たものであることは、ピカソ以外の作家――例えば、草間彌生の「病」と作品の関係――も、同様の手法で転倒を実現し得ることからも確かめられるだろう。

長澤均の『パスト・フューチュラマ』
長澤表紙写真
長澤均
『パスト・フューチュラマ――20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』
フィルムアート社、2000

ところで、以上はクラウスがこの書物を執筆した理由をテクストの内部に求めた分析であるが、逆にテクストの外部にもその理由を求めてみる必要があるのではないだろうか。すなわち、もはやアカデミックな美術史研究に回収されてしまったはずのピカソを、敢えてアクチュアルな批評という体裁で論じたのは、アカデミズムとジャーナリズムの制度的棲み分けに対する批判という側面があるのではないか、ということだ(その意味からも『ピカソ論』の刊行は喜ばしいが、それにしてもクラウスの著書の翻訳が今回で二冊目というのは、いかにも少なすぎる)。文芸批評の現況を難じた東浩紀の「棲み分ける批評」ではないが、この制度的棲み分けは美術の領域でも強力に機能しており、狭義の「現代美術」に自閉してしまった美術批評は、随分とアクチュアリティを失ってしまっているように思う。デザインもまた、そうした「現代美術」と隣接する境界領域の一つとしてあるわけだが、長澤均の『パスト・フューチュラマ』は、そのような棲み分けとは縁遠い横断的感受性によって書かれたデザイン論である。
著者の長澤は、現役のグラフィック・デザイナーであると同時に《bauhaus》展のキュレーションも手がけるなど多方面で活躍している人物だが、読書人にその名が記憶されているとすれば、なんといっても過去20年のうちに3度!刊行されたという、デザイン、美術、建築、自然科学などにまたがるあのカルトなノンジャンル情報誌『パピエ・コレ』」のエディターとしてであろう。「スタイル」「モード」「コンピュータ」といったデザイン寄りの三つのテーマに話題が限定された今回の著書にも、そうした越境的なエディトリアル・センスは存分に生かされており、ジャンルの分割に左右されない固有の身体に根ざしたフェティシズムが、一冊の著書をものにする十分な動機足り得ることを教えてくれる。ファシズムの解釈をはじめ、思想史的な裏づけがやや弱いこと、著者のフェティシズムに忠実なラインナップが、結果的には教科書的なデザイン史と大差のない構成になっていることなどに不満は残るが、所詮は歴史の浅い人為的カテゴリーに過ぎない「現代美術」に自閉してしまった業界人が、著者の越境的なセンスから学ぶべき点は少なくない。

『ISSEY MIYAKE-MAKING THINGS』
三宅表紙写真
『ISSEY MIYAKE-MAKING THINGS』
Fondation Cartier pour l'art contemporain 1999

さて、「現代美術」との境界領域としてもう一例、ファッションにも注目しておきたい。ファッションもまた「現代美術」との交流がしばしば取りざたされ、美術館を舞台とした大規模なファッション展が今や世界的に流行しているのは周知の通り。東京都現代美術館で4ヶ月近くに渡って開催された三宅一生展もまたその流行の一環を為すものなのだろうが、どういうわけだか、A-POCなど近年の活動はもとより、蔡国強、森村泰昌、荒木経惟らとのコラボレーションといった観点からも興味深かった同展の日本語版カタログは制作されなかった。何とも残念な話だが、フランスでの同展開催時に出版された『ISSEY MIYAKE-MAKING THINGS』は、図版・テクストともに充実したカタログであり、日本語版の不在を補って余りある書物として一見に値する(ちなみに、日本巡回展を意識してか、テクストはすべて英語で書かれている)。三宅一生のファッションが、従来の衣服が形作ってきた既存の社会的・文化的制度を突き破る、優れた越境性によって世界的ポピュラリティを獲得したことは今さら言うまでもない事実だが、であればこそ、このカタログからも伝わってくるそうした越境性を、「現代美術」という枠組みの再考にも当てはめてみる必要があるように思う。

[くれさわたけみ 文化批評]

関連文献
ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復』小西信之訳、リブロポート、1994
Rosalind Krauss "The Optical Unconscious", MIT Press, 1994
Rosalind Krauss "A Voyage on the North Sea-Art in the Age of the Post Mediumcondition", Thames and Hudson, 2000
『草間弥彌 ニューヨーク/東京』淡交社、1999
Laura Hoptman Akira Tatehata Udo Kultermann "Yayoi Kusama" Phaidon 2000
東浩紀『郵便的不安たち』朝日新聞社、1999
柏木博『デザインの20世紀』日本放送出版協会、1992
柏木博『ファッションの20世紀――消費・都市・性』日本放送出版協会、1998

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