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Artscape BookReview
暮沢剛巳
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経済/絵画/日本−ポストモダンの3つのフェーズ

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「脱芸術/脱資本主義論」表紙写真
熊倉敬聡
『脱芸術/脱資本主義論』
慶應義塾大学出版会、2000
熊倉敬聡『脱芸術/脱資本主義論』
多くの読者は、このタイトルから椹木野衣の『シミュレーショニズム』を連想することだろう。何しろ、バブル期には投機的な名画漁りが横行したかと思えば、景気が冷え込むと一転して多くの大企業が臆面もなくメセナ事業から撤退したこの国のこと、アートと経済の関係といえば長らく「あの名画は何億円」といった巷の噂話か、「あの展覧会の予算はいくら」といったマイナーな業界利権しか意味してこなかっただけに、資本主義に対するアートの批評的関係を論じた同書の提起は,他にそれと比肩する成果が存在しないこともあって今なお刺激的である。実際に最終章では詳細な分析もなされているのだから、熊倉敬聡のこの新著を『シミュレーショニズム』の問題系に位置付けてみる態度は、ある意味で至極当然のことに違いない。
もっとも、「がんばらなくてもいい社会に向けて」という帯の一句(この部分だけを強調すると、一時期メディアを賑わせた「だめ連」を彷彿させるかもしれない)が象徴的なのだが、本書の目指す地平はポストモダニズムとの共犯を意図していた『シミュレーショニズム』とは対照的である。この「がんばらなくても……」という立場はマックス・ヴェーバーを批判的に踏まえたもので、著者はこの立場を起点に「地域通貨」や「グローカル」といったおよそ美術書らしからぬ話題を、様々な現代芸術のフィールドワークと同居させ、アートと経済の現代的な相関関係を検証していく。その主張の核心に位置する「幸福学」の射程はいささか抽象的だが、経済学の確かな素養と豊富なフィールドワークの蓄積が、地味とはいえ精度の高い議論をもたらしていることは、本書の強調すべき美点だろう。
ところで、著者が8年に渡って書き継いできた論稿(その出典の多くは大学の紀要論文らしいから、近年のアカデミズムは随分とソフト化したものだと思う)を一冊にまとめた本書からは、二通りの軌跡を辿ることができる。一つは、現実の景気に対応するかのような80年代型ポストモダニズムからの脱却であり、もう一つは、著者自身の立場の変化である。プロフィールを見て驚かされるのだが、この著者は美術批評家でもエコノミストでもなく、実はれっきとした仏文学者なのだ。19世紀の詩人ステファヌ・マラルメを専攻し、モダンな芸術観にどっぷり浸かっていたことを自認する著者が、いかにしてそれとは対極にある現代芸術に「開眼」し、しかも経済という視点を加味して、アイデアル・コピーの一員として参加するほどにのめり込んでいったのか、本書の記述からそんな一個人の変化をたどってみるのも面白いかもしれない。ちなみに、この後者の変化には、ひところ仏文学界で一部の注目を集めた「テクストの経済学」という研究テーマが大きく関与しているのではないかというのが私見なのだが、本当のところはどうなのか、著者に尋ねてみたい気もする。

カスピット表紙写真
Donald Kuspit,
The Rebirth of Painting in the Late Twentieth Century,
Cambridge Univ Press, 2000
ドナルド・カスピット『The Rebirth of Painting in the Late Twentieth Century』
さて、アートと経済の関係を考察する試金石として『シミュレーショニズム』を引き合いに出したからには、そこで述べられている当時のニューヨークのアート・シーンをまた別の角度から検討しておくのも無駄ではないだろう。この動向がピークを迎えていたのは80年代後半、美術史的にはニュー・ペインティング現象の後に位置付けられる時期である。すなわち、この時期には絵画が特権的な特権的なメディウムとしての地位から陥落し、インスタレーションやら映像表現やらの様々なメディウムが渾然一体となったポストモダンな?状況が現出されたということになるのだが、それから10年あまりを経て、今また絵画は特権的なメディウムとしての地位を奪還したという立場が影響力を強めつつある。アメリカを代表する美術批評家ドナルド・カスピットの新著『The Rebirth of Painting in the Late Twentieth Century』は、一貫してそのような立場から書かれた書物である。同書の中で、カスピットはグレゴリー・アメノフ、ヴィンセント・デスディエロ、オッド・ネドラムといったポストモダン以降の絵画作家(ちなみに、ここでの論及対象は抽象絵画だけに限定されている)を精緻に論じ、その高い表現の質や欧米圏に広く指摘しうるその分布を根拠として、特権的な視覚芸術としての絵画の復権を力説している。本書の議論が絶えずジャクソン・ポロックやクリフォード・スティルら抽象表現主義のマスターズと結び付けられていることに、著者の反動的スタンスをうかがうことは容易いなのかもしれないが、冒頭で展開されているル・コルビュジエとフランク・ゲーリーの対比など他のメディウムも広く視野に入れ、また精神分析(前回取り上げたクラウスも同様だが、今やアメリカではこの言説を駆使できなければ一線級の批評家とはみなされないのかもしれない)やユダヤ研究にも精通したカスピットの議論は、安直な批判によっては解体されないだけの骨格を有しているだろう。正統派を自認する批評家や研究者には、是非とも本格的な紹介や翻訳に取り組んでほしい一冊だ。

『間――20年後の帰還/MA-Twenty Years On』
間展表紙写真
『間――20年後の帰還/MA-Twenty Years On』展カタログ
東京藝術大学大学美術館、2000

ポストモダン以降の絵画の復権――欧米圏では耳障りのいいこの言葉も、しかし日本ではさして共感を得られないだろう。言うまでもなく、日本では絵画が特権的なメディウムとして君臨してきた歴史的事実も存在しないし、またロラン・バルトの「空虚な中心」に典型的なように、日本の伝統文化そのものがポストモダンの一亜種にたとえられてきた経緯も、類型的とはいえ決して無視できないからである。1978年にパリで開催された磯崎新企画の『「間」――日本の時空間』展もまた、あるいはそうした日本型ポストモダンの神話化に関与していたのだろうか? その8年後にやはりパリで開催された『前衛日本の芸術』展の陰に隠れてしまっていた観はあるが、日本文化の粋をミニマリズムとエクセシズムに見出し、「結界」「擬」「見立」「空」そして「間」という語のもとに還元した同展の提起は、時空間の認識という観点からも極めて重要なものであり、当時は大きな反響を呼んだ。そして今、この「幻の展覧会」が20年余りの時を経て凱旋を果たした。ここではその詳細を紹介することはできないが、同展のエッセンスが凝集されたカタログが、磯崎氏のテクストをはじめ、日本型ポストモダンを考えるにあたって多くの示唆を孕んでいることを付言し、この問題に関心のある読者の一読を促しておきたい。

[くれさわたけみ 文化批評]

関連文献
椹木野衣『シミュレーショニズム――ハウス・ミュージックと盗用芸術』洋泉社、1991/河出文庫、1994
ジョージ・ソロス『グローバル資本主義の危機』大原進訳、日本経済新聞社、1999
だめ連編『だめ連宣言』作品社、1999
バーバラ・ジョンソン『差異の世界』大橋洋一ほか訳、紀伊国屋書店、1990
Donald Kuspit, Psychostrategies of Avant-Garde Paintings, Cambridge UnivPress, 2000
磯崎新『人体の影――アントロポモルフィスム』鹿島出版会、2000
ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳、新潮社、1974
岡部あおみ『ポンピドゥー・センター物語』紀伊国屋書店、1997
岡崎乾二郎+中谷礼仁「建築の解體新書」(『10+1INAX出版、連載中)

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