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西野嘉章『二十一世紀博物館――博物資源立国へ地平を拓く』
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西野嘉章
『二十一世紀博物館――
博物資源立国へ地平を拓く』
東京大学出版会、2000
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ミュゼオロジーという言葉から、真っ先に連想されるものは何だろうか? 学芸員資格取得制度が定着している我が国のこと、多くの者にとってそれは、キュレーター志望者がその資格を得るために大学で履修しなくてはならない必修科目の横文字、といった具合になるだろうか。ところが、近年のめまぐるしい情勢変化は、長年疑われることのなかったこの「常識」を揺るがしつつある。多くの大学では、旧来の美学美術史学や芸術学とは別 にアート・マネジメント講座を開設するようになり、また美術館・博物館のアーカイヴァルな機能や、いわゆる「ヴァーチュアル・ミュージアム」にも高い関心が集まりつつある。何より、日本の特殊事情に起因するここ数年の独立行政法人国立美術館・国立博物館問題は、賛否両論喧しい。かくいう評者も、昨秋にミュゼオロジー関連のブックガイドを作成したときに、さまざまな議論の拡がりを到底カヴァーし切れなかった苦い経験がある。要するに現在のミュゼオロジーは、旧来の「常識」ではまったく推し量 れないほどに多様化しているのだ。
そうしたなかで、最近になってまた一冊、このブックガイドに加えるべき新著、西野嘉章の『二十一世紀博物館――博物資源立国へ地平を拓く』が刊行された。著者はこの数年来ミュゼオロジーの分野で精力的な提言・実践を積み重ねている研究者で、本書は『博物館学』『大学博物館』に次ぐ三部作の完結編に相当する。「博物館工学(Museotechnology)」という独自の立場から、単にコレクションを収集・管理するだけではない、「博物資源」を発動させるための体系化された技術を擁する美術館・博物館の必要性を説く著者の議論には、すでに多くの研究が蓄積されていることや、名古屋ボストン美術館、NTTインターコミュニケーション・センター、東京大学総合研究博物館などのケース・スタディが踏まえられていることもあって、学問的水準の高さとけっして机上の空論には終わらない具体性とが備わっている。
この説得力が、学問的見識のみならず、多くの現場や行政資料にも精通した著者の的確な現状認識に多くを負っていることは確かだし、著者が「ミュゼオローグ」と称する、美術館・博物館を専門とする行政官の養成が急務であるとの提言にも、早期の実現は疑問だとしても真摯に耳を傾ける必要があるだろう。だが評者には、マルローの「20世紀ミュージアム」然り、ル・コルビュジエの「ムンダネウム」然りで、本書の提言がことごとく日仏比較によって導かれている点がいささか気にならないではない。なるほど、本書でも事細かに紹介されている文化大国フランスの美術館・博物館行政は極めて先駆的で、日本の貧しい現状に舞い戻ったとき、どうにも彼我の差を痛感せずにはいられなくなるのは事実だが、「グローバル・ベース」としての博物館工学を強調する以上は、フランスを範と仰ぐ立場以外の議論をもっと展開すべきだったのでは、というのが評者の偽らざる本音である。
Hilde S. Hein
『The Museum in Transition: A Philosophical Perspective』
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Hilde S. Hein
The Museum in Transition:
A Philosophical Perspective Smithonian Institution Press, 2000
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さて、「グローバル・ベース」というからには、ほとんどの他分野がそうであるように、ここでもまた当然アメリカの事例が検討されねばならないだろう。管轄官庁の文化省が強いリーダーシップを発揮するフランスとは対照的に、アメリカの場合は美術館・博物館のあり方を規定する法律すら存在せず、富裕な篤志家の寄付や個人のボランティアなど、民間の活動に多くを委ねる点にその美術館・博物館運営の特徴がある。「フィランソロピー」という理念が強調されるようになったのも、もっぱらこうした背景によるものだろう。
その点で、Hilde S. Heinの『Museum in Transition』は、アメリカ型の美術館・博物館運営の現状とあるべき理念を的確にレポートした好著である。本書によれば、アメリカでも多くの美術館・博物館は経営という観点を重視しがちであり、どうしても動員の見込める企画に傾きがちであるという。著者はその傾向に異を唱え、「スペクタクル」の必要性を認める半面、美術館・博物館が本来備えるべき研究・教育機関やアーカイヴとしての機能の充実を訴える。美術館・博物館はこれらの諸機能を統合した「パブリック・サーヴァント」として在るべきだ、というのが本書の一貫した立場であり、本来が哲学者である著者は、当然この立場から「フィランソロピー」の重要性を強調することになる。そしてその際に引き合いに出されるのは、マルローやブルデューといったフランス知識人の言説なのだ。
その主張からは、「何だアメリカの理念もフランスのそれと大差ないじゃないか」と反論されてしまいそうだが、両者の相違については、本書が書かれた背景を説明することであらためて納得してもらうことにしたい。先に民間に多くを依存するアメリカの美術館・博物館運営の現状に触れておいたが、なかには例外も存在し、例えば「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」や「ゲティ・センター」などを傘下に収めるスミソニアン研究機構は、大半の年間予算を連邦政府の補助金に依存する事実上の国家機関であり、同機構を版元とする本書の主張には、当然その指針が強く反映されている。極力イニシアティヴの前景化を控えながら、しかし最低限のクオリティだけは断固として維持しようというのが、アメリカ型美術館・博物館行政の本質なのかもしれない。
新見隆『モダニズムの建築・庭園をめぐる断章』
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新見隆
『モダニズムの建築・
庭園をめぐる断章』
淡交社、2000
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それにしても、「博物館工学」だの「フィランソロピー」だの小難しい議論ばかりでは閉口するという読者のためには、これらの議論とはまったくの角度からミュゼオロジーについて考える機会を提供する書物として、新見隆の『モダニズムの建築・庭園をめぐる断章』を薦めておこう。タイトルからすると本格的な近代建築の研究書のようにも思えるが、さにあらず、本書は軽妙な筆致で書かれたアート・エッセイである。現在はミュゼオロジーの大学教員に転進した著者は、長らくセゾン美術館で建築・デザイン関連の展覧会に携わったキュレーターであり、本書には著者が在職中に関わったさまざまな展覧会や、そのプロセスで接した作家をめぐる十数本のエッセイが収められている。イサム・ノグチ然り、ル・コルビュジエ然りで、論及されている対象はいずれも著者が深い愛情を注いだ建築家やデザイナーばかり、ややもすると偏向的なその筆致からは著者のフェティシズムと空間論への強い志向が窺われるし、また展覧会準備のために世界各地を訪れたキュレーターの旅行記としても読むことができるだろう。もっとも、話題は多岐に渡っていても、ひたすら展覧会を組み立てる歓びに身を委ねようとする著者の態度は終始一貫している。いかにミュゼオロジーが多様化しようとも、この歓びこそがキュレーターに最も欠くべからざる資質であるという一点は不変なのではないか――本書の一読後、ふとそのような思いが頭をよぎった。
関連文献
西野嘉章『博物館学――フランスの文化と戦略』(東京大学出版会、1995)
西野嘉章『大学博物館――理念と実際と将来と』(東京大学出版会、1996)
志賀厚雄『デジタル・メディア・ルネッサンス――バーチャル・ワールドとアートの潮流』(丸善ライブラリー、2000)
野田邦弘『イベント創造の時代――自治体と市民によるアートマネージメント』(丸善ライブラリー、2001)
太田泰人ほか編『美術館は生まれ変わる――21世紀の現代美術館』(鹿島出版会、 2000)
フリードリヒ・キットラー+シュテファン・バンツ『キットラー対話――ルフトブリュッケ広場』(前田良三+原克訳、
三元社、1999)
Hilde S. Hein, The Exploratorium: The Museum as Laboratory, Smithonian Institution Press, 1990
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