Artscape Book Review
暮沢剛巳
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持続する時間、連続する空間
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港千尋
『予兆としての写真』
港千尋
『予兆としての写真―映像原論』
岩波書店、2000
ルロワ=グーラン――最近になって、その名を忘れられて久しかった先史学者の偉大な業績に新たな光が当てられつつある。ともかくも、人間が祖先から継承する記憶横は、遺伝情報としてプログラミングされた生成的記憶、口承や文字によって伝えられる言語的記憶、そして諸々の道具や日用品に残された技術的記憶の三種類に分けられるという極めて明晰かつ奥行きの深い主張こそが、その代表作『身ぶりと言葉』の意図するところだった。かつてはジャック・デリダの『グラマトロジーについて』にも重大な影響を与えたその記憶論が、最近はまた、メディオロジーへの関心の高まりを媒介として、それとは別のフェーズで注目を集め始めているのだ。
その意味で言うと、この十年来の港千尋の旺盛な旺盛な執筆活動もまた注目に値するものだろう。というのも、その活躍ぶりに比して不思議と注目されてこなかった側面なのだが、彼の議論には、ほとんどその正統な継承者と言っていいくらいに、ルロワ=グーランの記憶論からの極めて強い影響が認められるからだ。今までのところ、その影響が最も露な著作は言わずと知れた『記憶』であるが、一見オーソドックスな写真論寄りの書物と思われる最近著『予兆としての写真』にも、同一の参照関係が確実に潜んでいる。
今まで、港千尋の写真論は、もっぱら写真家としての豊富なフィールドワークの蓄積と、狭義の写真論にとどまらない、最近では人類学や生命科学にまで及んでいる多岐な関心との高い整合性という先入観によって注目されてきた。もちろん、この先入観は誤りではないし、本書の読後感もまたこの先入観を決して裏切ることはない。だが、写真というメディアが本来的に持つ記憶という技術的機能、持続という時間的属性を原理的に追及しようとする港の姿勢は、どのケース・スタディの場合にも必然的にルロワ=グーランの記憶論との遭遇を余儀なくされるだろう……港の諸著作において、ルロワ=グーランの仕事がほとんど参照されたことがないという事実は、逆にあまりにも自明な両者の結びつきを物語っているだろうし、事実その関係性が一貫しているからこそ、本書の場合で言えば、職業的写真家の仕事と合わせて、レヴィ=ストロースや岡本太郎といった異分野の人々の優れた仕事をも同一の地平で論じられるのではあるまいか――このささやかな書評が、評者の揺るぎない実感を少しでも敷衍するきっかけとなるのであれば幸いだ。
『逃げさるイメージ アンリ=カルティエ・ブレッソン』
楠本亜紀
『逃げさるイメージ アンリ=カルティエ・ブレッソン』スカイドア、2001
ところで、『予兆としての写真』でも論評されているレヴィ=ストロースの『ブラジルへの郷愁』が、実は著者が旅先のサンパウロで、中古のライカを買い求めた偶然によって生まれた仕事であることは知る人ぞ知るエピソードだが
★1
、これと同様に、何かの機会にライカを手にした偶然がその人物を20世紀を代表する写真家へと押し上げ、しかも当の本人は自らの肖像撮影を頑なに拒みつづけたのだとしたら、これはもはや神話の域にまで達する出来事と言えよう。港がやはり高い関心を寄せるアンリ=カルティエ・ブレッソンはまさにこうした神話の持ち主だが、その神話の「脱構築」に挑んだ意欲作が、楠本亜紀の初の著書『逃げさるイメージ アンリ=カルティエ・ブレッソン』である。
そう、ニエプスによる初の感光印画紙撮影を起点とする約160年の写真史の中で、ブレッソンは紛れもなく神話となった名前の一つだった。それは、上に述べたエピソードもさることながら、彼がスナップショットを完成させた写真家の一人であることに由来している。「頭と眼と心を一つの照準線上に置くこと」というそのスナップショットの定義は、20年のキャリアを経た末に刊行された処女写真集『決定的瞬間』(これは実は英題である)の具体的な成果とともに、ブレッソンの神話化に著しく貢献したのだった。だが著者は、果敢にもこの神話に異を唱え、この処女写真集の原題が『逃げさるイメージ』であったという些細な事実を梃子として、神話化されたブレッソン像に伝記的事実と理論的考察の双方向からの介入を図ろうとする。そして、シュルレアリスムとの並行関係やほけとぶれの考察などを経て、その写真の本質が時間的持続よりはむしろ空間的連続に多くを依存していることを論証していくのだ。
本書はブレッソンの全体像を射程に捉えた研究とは言えないし、また理論的考察に導入されているのもある意味ありきたりな古典ばかりで、結論の斬新さに比して、そこに至るまでのプロセスがいささか物足りなく感じられなくはない。だが、まだ20代の若い著者にあまり多くを求めるのは酷な話だし、また少なくとも、既存のどのアプローチにもなかった切り口からブレッソン神話への「脱構築」的な介入に成功した功績には素直に首肯すべきだろう。ちなみに、本書は第6回の重森弘淹写真評論賞の受賞作品である。
才能豊かなことは間違いない著者の若さを羨みつつも、次回の展開に期待することにしたい。
アントニオ・ムンターダス『On Translatio:The Audiece』
アントニオ・ムンターダス
On Translatio:The Audiece
なお冒頭で提起した「記憶」の問題にあらためて引き寄せて、やはり港が高い関心を寄せる映像作家の一人であるアントニオ・ムンターダスのことにも少し触れておこう。個展が一度開催されたきりの日本において、その知名度は決して高いとはいえないが、実は彼は極めて批評性の高いアーカイブ映像によって国際的には広く知られた存在であり、その最新の成果は、既に会期は終了してしまったが、Web上では未だ展開されている展覧会「
On Translatio:The Audiece
」及びそのカタログによって知ることができる。ムンターダスは、一見何気ないアート・ピープルのインタビューやドキュメンタリー映像を一種のスペクタクルとして演出する空間認識に長けた作家だが、この最新作ではさらに一歩踏み込んで、映像の持つ「翻訳」機能をも鋭く問うている。その詳細は実際に展示を見てもらう他はないのだが、従来は複数の異言語間に同一性を打ち立てる行為として解釈されてきた「翻訳」という概念を、映像という領域にまで押し広げてみせた意義は大きいし、それはまた必然的に「記憶」という問題の再解釈をも迫ることになるだろう。ちなみに、このカタログの中には、キュレーターのインタビューと併せて、その難解さをもって知られるベンヤミンの「翻訳者の使命」も収録されている。ルロワ=グーランといい、ベンヤミンといい、メディア・テクノロジーが目まぐるしく変容する昨今も、最終的に依拠すべき古典の地位だけは不動のようである。
★1――レヴィ=ストロースはその偶然を「私は自分が写真家だという気はしないし、写真愛好家ですらない。敢えていえば私はブラジルでしか写真愛好家ではなかった」と書き記している。
関連文献
港千尋『記憶』、講談社選書メチエ、1996
港千尋『遠心力』、白水社、2000
アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』、荒木亨訳、新潮社、1973
ジャック・デリダ『根源の彼方に――グラマトロジーについて』、足立和浩訳、現代思潮社、1972
クロード・レヴィ=ストロース『ブラジルへの郷愁』、川田順造訳、みすず書房、1995
アントニオ・ムンターダス「Between the Frame」展カタログ、横浜ポートサイドギャラリー、1997
[くれさわたけみ 文化批評]