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岩渕功一『トランスナショナル・ジャパン』
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岩渕功一『トランスナショナル・ジャパン』
岩波書店、2001
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今から10年以上も前の話だろうか、一部のメディアで「アメリカン・スタディーズ」と呼ばれる研究アプローチが注目を集めたことがある。その実体は必ずしも明確ではなかったが、代表格と目されていた生井英孝や奥出直人らの仕事から類推するに、それは恐らく、世界的な覇権を占めるにいたった――建築、デザイン、映画、文学といった――アメリカの消費文化全般を、地域研究の枠に自閉することなく、ある種のインターナショナリズムの下に検証しようとする試みだったのであろう。とすれば、それは近年のカルチュラル・スタディーズ(CS)の先鞭をつける知的探求であったとも言える。
岩渕功一の処女作『トランスナショナル・ジャパン』を一読したときに、真っ先に評者が思い起こしたのも、今や死語同然?の「アメリカン・スタディーズ」のことであった。このタイトルがちょうど10年前に同じ版元から出版された奥出の『トランスナショナル・アメリカ』を髣髴させたからかもしれないが、それ以上に、やはり今や世界的に強い影響を及ぼすようになった日本の消費文化を緻密に解析しようとするこの試みを喩えるには、かつての「アメリカン・スタディーズ」の「アメリカン」を「ジャパン」へと置き換えてみるのが何にもましてふさわしいのではないか、との予断が頭をよぎったからでもある。 もちろん、10年という年月の経過が、評者が仮に「ジャパン・スタディーズ」と命名した本書のアプローチを一層精度の高い、よりCS的なものとしていることは疑いない。本来が博士論文であるだけに、文章がいささか生硬な半面、アプローチが極めて実証的であるのは当然だが、本書は「グローバライゼーション」や「ハイブリッド」といったいかにもCS的な用語を軸に、近年のアジア地域における日本のポップ・カルチャーの受容を「東京ラブストーリー」のような具体的なケース・スタディを交えて分析し、それを「アジアン・モダニティ」という著者独自の概念の下に集約させ、日本とアジア地域における文化輸出/輸入の圧倒的な不均衡の批判へと繋げていく。「インターナショナル」というごく一般的な言い方と比べた場合、「トランスナショナル」という概念には明らかにグローバル/ローカルというユニットに対する強い批評性が含意されており、その意味では日本とアジアの複雑な文化的交錯を精緻に辿ろうとした本書にとって、まさに「トランスナショナル」という表題はうってつけであろう。今後もまた、別のケース・スタディに取材した「ジャパン・スタディーズ」の新たな展開が期待される所以である。
『JAPAN POP!』
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Timothy J. Craig(eds)
JAPAN POP!: Inside the World of Japanese Popular Culture. M.E.Sharp, 2000
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もっとも、「アジアン・モダニティ」を梃子として日本のポップ・カルチャーを語ろうとする姿勢には、一定の留保も必要だろう。日本のポップ・カルチャーを世界的な趨勢の下に問題視する場合には、どうしてもアニメやゲームといったオタク系の文化へと関心が集中してしまいがちなのだが、ポップ・カルチャーを文字通りに「大衆文化」へと翻訳するのであれば、そこでは演歌のような歌謡曲、TVの連続ドラマのような「ソープ・オペラ」をも等閑視しなければならないはずだからである。その点では、Timothy J. Craig(eds)のJAPAN POP!などは、まさにそのような視点から書かれたオーソドックスなポップ・カルチャー研究と言えるだろう。それぞれ「音楽」「マンガ/アニメ」「映画/TV」「日本文化の海外受容」を扱った4部構成からなる本書では、日本人を含む多数の論者が日本のポップ・カルチャーにおけるアイデンティティ、ジェンダー、家族や社会といった問題を仔細に論じている。トピックが多岐にわたる半面その掘り下げ方はやや浅く、また「ポップ・カルチャーは単なるエンターテインメントではなく、日本社会のあり方を投影するものだ」という全体の指針も平凡に過ぎる気もするが、翻訳に際して必然的に生じる意味のズレに周到にも配慮し、また安直なオリエンタリズムにもおもねることなく、可能な限り多角的に日本のポップ・カルチャーを検証しようとする姿勢は、相応に評価されて然るべきものである(このような立場からの研究は、意外にも類書に乏しいのだ)。もっとも、以上のような立場を堅持しているにしても、結局のところ最も多くの読者の関心を引くのは、マンガやアニメを扱った部分に相違ないのだけれども。
椹木野衣の新著『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』
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椹木野衣
『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』
筑摩書房、2000
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さて、ジャパン・スタディーズの一環としてマンガ論へと言及した余勢をかって、椹木野衣の新著『平坦な戦場でぼくらが生き延びること』にも一瞥を与えておきたいが、未だ根強い人気を誇る漫画家・岡崎京子を論じたこの意欲作を紹介するに当たっては、事前に断っておかねばならぬ点一つある。すなわち、ポップ・カルチャーの先鋭な論客という印象の強い著者がマンガをとりあげた著作ということで、本書はどうしてもオタク文化論に傾斜した書物という先入観を免れない面があるのだが、さにあらず、本書はオタク文化論でもなければ、マンガという表現ジャンルを論じたメディア論でもない、岡崎京子の作品世界へと入り込み、それを丁寧に論じたれっきとした作家論であるということだ。これはやはり、岡崎京子の作品の性質によって規定されている部分が大きいのだろう。考えてもみれば、80年代半ば〜90年代半ばにかけて、岡崎京子のマンガは、日本の消費社会に対する独自の批評性を発揮した作品(そもそも当時、自作のコミックスの帯に「愛と資本主義」などというコピーをくくりつけるセンスの持ち主が、彼女のほかにいただろうか!)として一部の読者から熱狂的に支持されていたし、また明らかに、その批評性はオタク文化の圏域の外にあったものだ。岡崎マンガの熱心な読者であり、また展覧会企画などで仕事を共にするなどした著者にとって、それはあまりにも当然の前提であった。なお付言しておけば、ウィリアム・ギブソンの作品から採取した本書のタイトルもまた、岡崎の作品世界と強く関連するものである。
周知のように、数年前に不慮の事故に遭って以来、岡崎京子は創作活動の中断を余儀なくされており、彼女の作品を論じるという行為は、必然的に過去形の作業とならざるを得なくなってしまう。それはわかってはいるのだが、しかし、例えば著者が80年代の傑作『東京ガールズブラボー』を論じるに際して、当時の記憶を「羊のドリーも大震災も、不良債権もIT革命も、環境ホルモンも地下鉄サリン事件も『無かった』時代――そんな時代が『いま』と隣り合わせだったなんて、あなた、信じられますか?」と回顧してみせるあたりに、痛切なときの流れを実感せずにはいられない。光陰矢のごとしとは、まさにこのことである。
関連文献
奥出直人『トランスナショナル・アメリカ』岩波書店、1991
生井英孝『ジャングルクルーズにうってつけの日』、三省堂、改定版2000
アクロス編集室編『世界商品の作り方――「日本メディア」が世界を制した日』、PARCO出版、1995
岡田斗司夫『東大オタク学講座』、講談社、1997
東浩紀「可視的なものたち」――「ユリイカ」2001年2月号〜連載中
四方田犬彦『漫画原論』、筑摩書房、1995
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