キューバの文化省に勤める友人の紹介で、イブライム・ミランダという地元アーティストの自宅兼スタジオを訪ねた。
今や、キューバの現代美術作家と言えば、(ちょうど東京都現代美術館の《ギフト・オブ・ホープ》展に出ている)カチョーが有名だが、ミランダはカチョーを追うアーティストの一人だということだ。この2、3年は、南米、ヨーロッパ、アメリカ合衆国でも数々の個展、グループ展をこなし、今や世界に向けて売り出し中である。(彼も「美術館業界の専制」に身売りしつつあるということだろうか。)約一時間、初対面の私に、おいしいキューバ・コーヒーをふるまってくれながら、自作を次々と熱心に、真摯に紹介してくれた。
彼は、ここ数年、下にあるような横長の連作を制作しつづけている。木版で蟻の巣などの動植物の生態を表している、と見るや、しかし、よく近づいて観ると、それはもともとキューバの道路地図や産業地図を繋ぎ合わせたものだったことがわかる。白く抜かれている部分は、島国キューバを象っているのだ。そこには、経済的、政治的、文化的に困窮を極めるキューバの現状が、観者の視点の移動とともに、動植物の表す多様で賑やかな未来へとメタモルフォーズしていくという願いがこめられている。
彼はまた、去年制作の新作『黒い涙』を見せてくれた(図右下)。この作品は、上記の連作と違い、初めて古地図、新大陸発見直後に制作された地図を使ったものだ。
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▲イブライム・ミランダ「黒い涙」(2000、シルクスクリーンと木版、90×111cm、courtesy: Graphicstudio, Tampa, Florida)
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▲イブライム・ミランダ Ibrahim Miranda |
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現在、キューバとなっている島は、コロンブスによって1492年に「発見」されている。1512年にはすでに最初のスペイン人植民都市が建設されている。その後、植民地化が進展するとともに、アフリカ黒人奴隷の貿易基地として栄える。最終的に奴隷制が廃止されたのは1880年だ。今でも、多くの黒人奴隷が過酷な労働を強いられたプランテーション跡が各地に残っている。
この作品も、視点を遠くに置くとき、「黒い涙」を流す顔が浮かび上がってくる。勿論、その黒い涙は、以上のような過酷な植民地化の犠牲となったこの島の悲劇を表しているが、それだけではない。地図の描かれた時代、まだ「アメリカ合衆国」も「キューバ共和国」も存在していなかった時代に、少なくともこの地図の作者は、現在のフロリダ半島とキューバ島を一体として捉えている。両者の間(「フロリダ海峡」)は、200キロほどにすぎず、歴史的に人・物の往来も盛んであった。ところが、1962年の国交断絶以来、その200キロは犯すべからざる200キロになっている(ゴンザレス君事件は記憶に新しい。)しかも、この作品は、南フロリダ大学グラフィックスタジオ(通称Tampa)の協力の下に制作されている。そんな、いたって複雑な歴史的、政治的、文化的文脈を、この作品は見事に表現している。
私は、これらの作品を観ながら、ふと、気に入った一点を購入したいと思い、値段を尋ねた。700ドルという答えだった。自分の普段の金銭感覚からいって買えない値段ではないなと思い、しかしその日は現金の持ち合わせがなかったので、後日再訪し、購入する旨を告げた。
だが、数日後、私は購入を断る電話をかけた。彼を紹介してくれた友人の月給がわずか15ドルであり、700ドルをここキューバで「現代美術作品」に支払うことの中に、世界の経済・政治・文化のあらゆる矛盾が凝縮されているように思えたからだ。彼には悪かったが、私にはその700ドルをどうしても払うことができなかった。