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グローバリゼーション・ウォー:ロンドンvsパリ

.. 不思議なことに1月のロンドンは快晴続きだった。こんなことは私の体験では前代未聞で、地元の人たちにとっても珍しいらしく口々に素晴らしい天気を感嘆していた。それと打って変わってパリはミゼラブルだった。毎日風が冷たく強く、からだがじっとり濡れるぐらいの雨が降り続き、冬の嵐のような日々だったのである。天気のようすだけで双方の勝負をするわけではないが、通常ロンドンとパリが持ってるイメージが天気ひとつでも裏切られるとなんだか不思議な気分になるのだなと認識したのは確かだった。
今回の欧州訪問では、ロンドンとパリをグローバリゼーションの視点から比較研究するために赴いたのではないのだが、それぞれの地で見た展覧会に共通の背景、そして異なる意識を感じたのである。ロンドンのホワイトチャペルで開催されていたのは「テンポラリー・アコモデーション(仮住い)」という4組のグループショーで、いずれもイギリス国外での生活者や制作していたことがキーとなっている。つまり、海外で過ごした“仮住い”の体験が作品に生かされていることが、今回の展覧会のメインコンセプトといえるだろう。一方、パリ市近代美術館で行なわれた「パリ寄港」は、パリを拠点にしている外国人作家のグループショー。どちらもインターナショナルおよびグローバリゼーションを意識した展覧会であることに間違いないが、それぞれのアプローチにお国柄が見えるのが興味深い。イギリスでは、あくまでもイギリス人が主体であって、彼らが遠征し活躍した状況を紹介するというもので、伝統的な植民地主義を彷佛させる。また、フランスではパリという‘芸術の都’が主役で、芸術国家としての沽券に執着しているのが見て取れる。どちらも自国の歴史的背景から引き継がれる‘ものの見方’が重要な役割を担っているといえるだろう。かなり短絡的で紋切り型に思える判断だが、それがヨーロッパという長い歴史のなかで培われた文化なのではないだろうかと、どうしても思ってしまうのだ。

「テンポラリー・アコモデーション」
「テンポラリー・アコモデーション」展では、ギャラリースペースという仮設の場所に作品を入れ込む作業もまた「仮住い」として捉えていて、ギャラリーとの関わり方を改めて問い直した点も注目に値する。エラ・ギブスという作家は、文字どおり展覧会期間中にギャラリーを住いとするプロジェクトを行なった。彼女はイーストロンドンで「belt」というアートのみならず音楽、サイエンス、テクノロジーといった幅広い内容のイヴェントスペースを運営している。この「belt」がホワイトチャペルのなかに移築されたのだから、作品というより乱雑に散らばったペーパー類のなかで電話やコンピュータが埋没しているオフィスそのままの姿を見ることになる。これは同様のアイデアとして昨年、バスハウス(谷中)で行なわれたコマンドNの回顧展が思い出されるが、後者は少なくても観客を想定した展示が施されていた。観客のために、コレクションの展示や彼らの活動を美しくプレゼンテーションすることが重視されていたといえる。それに彼らはホントにバスハウスにオフィスを限定期間だったが仮住いする必要があったわけで、展覧会のための移築とはちょっと事情が異なる。「belt」のほうは、明らかにオフィスが時空間を超えてワープしてしまった状況をみせることに重きを置いていると言えるだろう。したがって、彼らのオフィス状況を持続するスタイルが取られている。日刊で発行されるフリーペーパーを作成したり、観客を訪問客としてミーティングしたりするなど、まったくガラス張りのオフィスを体験することになるのだ。
また、「スーパー・ギャラリー」というギャラリー名で出品していたグループも参加。彼らは実際にミュンヘンで同名のギャラリーを運営していたが、現在はロンドンを拠点に活動している。彼らは、本展覧会のために「移動ギャラリー」の設立に向けたプロジェクトを立ち上げ、そのためのアイデアフローが、ヴィデオやドローイングなどで展示される。したがってこの展覧会によって「ギャラリー・イン・レジデンス」を行なうプロジェクトを実践し、そこで新ギャラリーのプランとしてモバイル化を構築しようとする、複雑に絡み合った関係を見ていくことになる。一見すると登場人物が複雑すぎて分かりづらいサスペンスドラマのようなのだが、オルタナティヴ・スペースのライブリーな活動方針が展示から見えてきて複雑な関係を紐解いていくことがオモシロイのだ。しかし、こうした複雑に絡み合った構造を観客がすぐに理解できるとはとても思えなかった。
どうやら今回の展覧会は、96年に開催されたパリ市近代美術館の「ライフ/ライブ」を思い出すことになったのだが、こちらは当時パリで紹介されたロンドン・アートシーンのイギリス現代美術の展覧会として最も注目されたものである。ハンス=ウルリッヒ・オブリストによる壮大なカオスを構築した展覧会として「シティ・オン・ザ・ムーヴ」と並び表される代表的なものだ。ホワイトチャペルがそのスタイルをパクって踏襲したと言われるのは遺憾かもしれないが、「ライフ/ライブ」では、当時のロンドンのオルタナティヴ・スペースを数多く実名で組織のまま紹介していたのがユニークだったのである。ここでも、フランスは海外展を独自の方法でパリに入れ込むことを行なっていたのに対して、イギリスはやはりイギリスに関するものを紹介しているという図式が見えてくるのである。そうまでして自国アピールに執着するのも、オリジナリティといえるかもしれない。はたして日本展もしくは日本での海外展に共通展が見てとれるだろか。まだまだカラーというのが出ていないような気がする。もしあるとすれば、あまりに平板に整った新聞系美術展のスタイルだろうか。それは個性を持たないパッケージ化されたもので、どこの場所や組織にでも適応できるというのがウリなのだ。美術館の運営方針や予算の事情もあるだろうが、そろそろ卒業したいスタイルといえそうである。

「パリ寄港」
「パリ寄港」は、パリという‘芸術の都’には様々な人種や民族が集まる〈るつぼ〉なのだと改めて関心させられる展覧会である。ここでは、時を同じくして20世紀を代表する戦前のムーヴメント「エコール・ド・パリ」の展覧会が並行して行なわれていた。当然、このシャガール、モディリアニなどの巨匠を含んだノンフレンチのアーティストたちによる大掛かりな展覧会は、90年代以降の移民作家展と共通点を持たせるダブル・プログラムである。こうして世代を超えたノンフレンチパワーを見せつけることでグローバリゼーションは、パリが先駈けだったことを改めて伝えたかったのだろう。フランスでそうした戦略がことごとく成功しているのは事実だからだ。それを国家レベルの政策として育ててきたからである。それによって計り知れない文化財産を構築したのはここで改めて述べることもなくフランスの美術館を訪れれば一目瞭然である。フランスは、海外作家を引き付ける魅力を継続してもっているといえるかもしれない。つい最近インタビューしたパリ在住の韓国人作家クー・ジュン・ガもパリで暮らすのは楽しいといっていた。フランスではどんな人種や国籍でもパリを拠点に活動している作家たちが、フランス代表の作家として選ばれるチャンスがあるからである。彼らの意識では、アーティストたちにはいつでもグリーンカードが用意されているといえるかもしれない(実際にはかなり厳しくなってきているらしいが)。少なくとも世界中でもっともオープンな環境を与えていることに自負があるに違いない。
イギリスとフランスの文化比較研究などは、もともとするつもりがないが、昨今話題のグローバリゼーションというものが、降って湧いたにわかな考え方ではないということを改めて感じることができた。この国々の文化意識には長い歴史的視点をもたないと何も見えてこないのだ。彼らはかなり奥深いところで繋がっていて井戸の水はいつまでも汲み出せるのかもしれない。

[かとう えみこ 美術批評・キュレーター]


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