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FOCUS=身体表現の現在
桜井圭介
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明るいオブセッション
「ダンス等の舞台表現に見られる“身体の今”について」何か書けという依頼だが、最初に言っておくと、ダンスの場合、モロ身体表現であるがゆえの「自明性」のため、例えば美術の場合のように作品に「痕跡」として印される身体、「言い間違い」に露呈する無意識としての身体が出てきにくいのだ。そこで少し遠まわりをして、最近見たなかで特に強い印象を受けた現代美術の作品について、門外漢の素朴な雑感から書いてみたい。

モダニズム的主体と無縁の「明るさ」(^-^;)
加藤美佳の「サンライズ」。四隅を丸くした木製の板(ちょうど大きさといい食堂のテーブルみたい)一杯に、オカッパに大きなお目目の“昭和30年代チック”な女の子の顔が「デカデカ」と描かれている。まず、「そんなもの」がそんなデカさで描かれているということに圧倒されるわけだが、その製作行程がまたよくわからないのだ。その女の子は自分で一から作った人形をモデルにしたものだという。その人形も恐らく人形製作としてもかなり質の高い仕事になっていると思われる。で、それを見ながら描くかと思いきや、次にポラロイドで片っ端からいろんな風に撮る。で、気に入ったカットを選ぶ。そうして初めて、描く直接の対象物ができ上がるのであった。頭の中のイメージ(二次元?)→人形(立体・物)→ポラ(二次元)→タブロー。何でこういう行程が必要なのかは、こちらにはイマイチ理解できないとも、本人の思考のなかでは極めて必然なのだろう。最終的な結果として出てきた「作品」の強度を見れば、納得せざるを得ないから。
加藤美佳図版1
加藤美佳図版2加藤美佳
上=カナリア 1999
oil on canvas 194×194cm
下=サンライズ 1999
oil on canvas on wood 129.2×121.0cm
写真提供=小山登美夫ギャラリー
近くへ寄って見ると、「一見、ハイパーリアル」と見えたマチエールも、実は、様々な色(黄色、赤、青、緑…)の微小な斑点(ほくろやソバカスのような)が飛び散ったように撒かれている。それもまた、ひとつずつ絵の具を置いていったのかと思うとクラクラする。そして再び離れて見れば、そこには巨大な「オカッパに大きなお目目の“昭和30年代チック”な女の子の顔」だ。何だろう、この「固執」は。余人には“So What?”なものに対する、時間と労力と技術のかけかたは尋常ではない。
できやよいといい、この加藤美佳といい、最近の若い女の子アーティスト(っていうのも変な言い方だな)の、イメージの定着に際して見せる、ある意味「愚直」「愚鈍」なまでの「しぶとさ」。これにはどうやっても若い男の子アーティストは太刀打ち出来ていないのでは。まあ一つには、「男は堪え性がないから」という俗説があるにしても、「辛抱堪らん」というその際に、すぐに「デザイン」処理方向に逃げて、なおかつそれを「方法論だ」と自己正当化するのが、ちょっとだけ情けない(自戒も込めて)。もしかしたら今の男の子は、そもそも表現として外に出すようなオブセッシブな何かを持っていない、ということだろうか? それはそれで、「いわゆるポストモダン」の「限りなく希薄なリアル」という必然、なわけなのだろうし、村上隆の「スーパーフラット」
★1がそれに対応する表現なのかもしれない。
★1――「超平面性」という美術プロパーのタームの外枠には「超希薄なリアル」という大きい括りがあるはず。また、それとは別に「現象としてのスーフラ」と「表現としてのスーフラ」という峻別は必要なのでは。状況認識として「トウキョウはスーフラ」というのは別にもうわかりきったことでしょ。だからといってじゃあ表現もスーフラでいいのか?というのが、浅田彰センセイの批判(例えば、『波』連載の「手帳2000」第11回)の中心点であろう、と推察いたす次第。
だが、「スーパーフラット展」にもタカノ綾とか奈良美智のような作家も入っていたわけで、そこを考えると、「スーパーフラット」の射程は案外広いと言えるかも。加藤美佳やタカノ綾やできやよいは、オブセッシブはオブセッシブだとしても、それはきわめて明るいオブセッション、超マヌケなオブセッションだ。それは「抑圧」とか「外傷」といったモダニズム的主体とは関係がない(ゆえに「できやよい=90年代の草間彌生」という評価はちょい苦しい)ところに生じる新しい形の強迫観念なのではなかろうか★2
★2――仮にできやよい等を、少なくともタカノ綾あたりまでををスーフラと認めるならば、原則的には「不在が不在になり」「徹底的に表層的な世界」(前出、浅田氏)だとしても、別ルートから回帰してくる「リアル(のようなもの)」が存在し、もしかしたらそれが「幽霊」(東−デリダ)だ、ということにならないだろうか。
「危機に立つ肉体」(-_-;)
さて、ここでようやくダンスの話につなげることができそうだ。「ミライクルクル」という女の子4人のグループもまた、傍目には理解できないオブセッションをお持ちのようで、舞台にはちょっとあきれるようなダンスが登場する。「暗闇でペンライトのダンス」と聞いて、普通イメージするのはファンタジックな、もしくはミステリアスな、ともかくオシャレな「イルミネーション・ダンス」ちっくなものではなかろうか。ところが、この子たちのは何と「ポリネシアン・ショーの松明ダンス」みたいなマヌケなヤツだった。しかも音楽はF・レイでやんの。あるいは、全身にびっしりと花をくっつけて「生きた菊人形」。その花を、まるでかさぶた剥がすみたいにして延々むしり続ける。怖いよー。あるいは、「小人の少女が並んで行進している」。単に膝を床につけてズッていくと、膝下がワンピースに隠れるということだが、これ、舞台の端から端まで移動するだけでも、かなりハードなはず。「何もそこまで」というか「何のために」というか…。どうせ答えは決まっている、「だってやりたかったんだもん。」って。しかしこれは「ダンス」だろうか?
そもそもダンスという行為は本来的に陶酔、高揚する身体の表現であったし、それが20世紀に「芸術」となってからは、抑圧や外傷を前提する「危機に立つ肉体」、つまり「せっぱ詰まった身体」のための形式ではなかったか。舞台芸術としてのダンスほどモダニズム(主体という概念)と結びついた表現はないと言えるかもしれない。ところが、今がいわれるようにポストモダン状況だとすれば、それは「せっぱ詰まらない」ということ(「終りなき日常」つーことですな)だ。つまりダンスである必然が問われる事態になっているわけだ。しかし大方のいわゆる「コンテンポラリー・ダンス」は、口では「僕たちのこの限りなく希薄なリアルを切り取る」とか言いながら、おのれの持っているツール=ダンスが、「せっぱ詰まった人」用であることに気付かない。そして美術より分が悪いのは、モロ身体という基本的な身上によって、例えば手描きをやめてCGにするというような手が使えないということだ。それが冒頭で述べたダンスの「事情」である。それでも、少なくともミライクルクルは、ちゃんと明るく「せっぱ詰まっている」。ただそれはかつてのダンスの大義名分、大文字の問題(「主体」とかね)ではないということだ。
ミライクルクル図版
▲「ミライクルクル」公演より

「ミライクルクル」
ダンスカンパー枇杷系(山田せつ子主宰)の若手4人により結成。メンバーのうち加藤奈緒子と天野由起子もソロ作品を発表する枇杷系の連続公演「ダンスの発明」が枇杷系スタジオで開催される。
11月24、25(加藤奈緒子、飯田幸代)
12月15、16(北島由里香&具民和、前田ゆきの)
12月22、23(天野由起子、斎藤清美)
各日とも19:30〜
問い合わせ: 
枇杷系スタジオ03-5982-7268
身体の痕跡に憑依された身体――パラパラ(^o^)
しかし、実はもっと徹底的に「今日の身体」なダンスがある。「パラパラ」だ。去年あたりはR&Bが日本にもついに根付くか?という感じだったのに、結局は盆踊りで「J回帰」かよ、と思わざるをえないのも確かだが、何で、このようなバカダンスがかくも蔓延いや普及するに到ったのかと言えば、まずは「あまりにも簡単だから」ということだろう。究極の「誰でも踊れるダンス」。ただし羞恥心がなければの話だけど。身体の行為としては極度に省力化された「パラパラ」は間違いなく「スーパーフラット」だろう。手旗信号みたいにカキカキ、テキパキ、パラパラと、一本調子になげやりに、何もニュアンスをこめずに機械的に腕だけ動かす。
しかし、ここにも明るいオブセッションがあるのではないか。あまりにも簡単な振りを延々無意味に踊り続けること、振り自体は簡単だがとんでもなくテンポが速いこと、日々次々と発表される新曲(しかし、ほとんど振りに差はない!)を覚えていくこと……。そして、それを踊るガングロのヤマンバたち。あの超マヌケを志向する身体のプレゼンテーションの仕方、トンデモなくクダラナイ方向へメイクが止まるところを知らず過剰になっていくのは、明るい(でもやっぱちょとアブナイ…)強迫観念にほかならない。そして、今やフツーのギャルもサラリーマンも踊る「パラパラ」は、パンピーのための「ヤマンバ代償行為」になっているのだろう。おそらく「舞台上のダンス表現」で、「パラパラ」ほどの強度をもった身体というのはありえない。パラパラは「身体表現」ではなく、無意識の身体の痕跡に憑依された身体なのだから。ま、単に「あれは現象」
★3と言うこともできるけど。
★3――「表現」というよりは「現象」と言うべきもの、Jポップ、J文学、ジャパニメーション等に関しては、浅田氏の言う通りドメスティックな自閉「現象」なのだと思うし、どうせ止まるところを知らないのだから、それをことさらに「表現」として持ち上げる必要もないのだが、とにかく何といっても「世界に類のない」現象には違いない。

さくらいけいすけ ダンス批評

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