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FOCUS=アート・アニメーション
篠儀直子
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運動の快楽と死――表現媒体としてのアニメーション
肉体的遊戯
ゾーイトロープ
ゾーイトロープ

ジョルジュ・シュウィッツゲベルは油彩画風の画面を動かしていくアニメーターで、彼が1985年に製作した短編アニメーション『78回転』では、レコード、コーヒーカップ、らせん階段などの円環状のモチーフが、それぞれの回転運動によって切れ目なくリレーされていく。そのリレーのなかにちらりと登場するのがゾーイトロープである。『フランケンシュタインの恍惚』(82)で映画に対し、『絵画の主題』(89)で絵画に対してオマージュを捧げたシュウィッツゲベルは、ここでは運動を再現しようとした先人たちの試みにオマージュを捧げているわけだ。映画が(そしてイラストレーションを用いたアニメーションの場合は絵画も)アニメーションと縁の深いものであるのはもちろんだから、映画や絵画と並んでゾーイトロープがオマージュの対象とされたのは不思議なことではない。しかし、カメラ・オブスキュラのような光学装置と並んで映画の祖先とされるゾーイトロープではあるけれど、実写映画の誕生のためにはもうひとつ写真装置の発明が必要だったのだから、側面に絵の描かれた円盤を鑑賞者が回転させることにより、残像現象を利用して(パラパラマンガと同じ原理で)運動のイリュージョンを作り出す装置である、肉体的遊戯性を持ったゾーイトロープの血は、実写映画よりもアニメーションのほうにいっそう濃くひかれていると言えるだろう。アニメーションは実写映画よりもはるかに「由緒正しい」メディアなのだ。

アートの快楽

ここでは、そうした「由緒正しい」メディアであるアニメーションのなかでも、アート・アニメーションとして語られることの多い作品に限定して話を進めていこうと思う。こうしたアニメーションは現在、長くても30分そこそこの作品として製作されるのがほとんどだが、それでも実写映画同様に物語性を持っていることが多い。しかし、こうした作品を観た者がまずとらえられるのは、その概念的な内容ではなく、画面に生起する運動そのものであるはずだ。同時代のヒッピー・カルチャーを強烈に反映し、風刺的メッセージが極めて明らかであるラウル・セルヴェの『クロモフォビア』(66)や『語るべきか、あるいは語らざるべきか』(71)にしても、これらのフィルムを魅力的にし、その結果われわれをメッセージへとスムーズに導いていくのは、描かれた絵の造形的な魅力であり、各モチーフの突拍子もない変形の連続である。誰も見たことのない変形を、誰も見たことのない運動を実現すること。それは表現活動の本源的快楽に関わることだ。コンセプチュアルな部分以前の問題として、アニメーションには創作行為が本来持つプリミティヴな喜びが沸き立っており、われわれがこれを観て感銘を受けたとしたら、それは何よりもまずそうした喜びが感染した結果なのである。


ラウル・セルヴェ『夜の蝶』
ラウル・セルヴェ『クロモフォビア』 ラウル・セルヴェ『語るべきか、あるいは語らざるべきか』 ラウル・セルヴェ
『夜の蝶』
NACHTVLINDERS 1998

図版=「ラウル・セルヴェの世界」チラシより

ラウル・セルヴェ
『クロモフォビア』CHROMOPHOBIA
1966
ラウル・セルヴェ
『語るべきか、あるいは語らざるべきか』
TO SPEAK OR NOT TO SPEAK 1971
『夜の蝶』―ラウル・セルヴェの世界は、2000年12月2日より渋谷ユーロスペースにてレイトロードショー上映中。配給=吉本興業株式会社
夢の運動

アニメーションのこうした快楽を、アートの分野よりも狭く限定して映画の文脈からとらえなおした場合、これまたやはりうらやむべき事態だということになるだろう。アニメーションに見られる止むことのない変形、きりのない転倒といったものは、われわれにジョルジュ・メリエスの魔術的世界を想起させるものであるかもしれない。そこにあるのは狂気をはらんだ永遠運動だ。メリエスを含めた多くの映画製作者が夢見たものを、アニメーションはほぼ完璧に実現できてしまう。映画というメディアが生得的に持つ運動性の快楽を、アニメーションならばぎりぎりまで突き詰めていけるというわけだ。だがアニメーションはその運動性を、「自然な」かたちで提示しようとはしないだろう。人形も粘土も、はたまた画像に合成された人間たちも、ギクシャクとしたひっかかりを残しながら動くだろう。セルヴェは『夜の蝶』(98)において、観る者を陶然とさせる流麗きわまりない運動を実現したが、これまた過度の流麗さゆえに不自然さを――この作品の物語の文脈で言えば幻想性を――露呈させるものであった。かくして暴露されるのは、運動の連続性というのは欺瞞にほかならないという事実である。実際、映画の運動は、1秒あたり24コマの静止画像から成り立っているのだから、その1秒間の連続のうちには24回の切断が内包されているはずではないか。24コマの静止画像をつなぎ、連続性のイリュージョンを捏造すること。この工程をアニメーションが、実写映画よりも意識的に行なうものであることは言うまでもない。アニメーションはフィギュラティヴなものではあるが、実写映画がそうであるように、かつて現実に行なわれた運動を再現しようとするものではけっしてない。そこにあるのは存在したことのない偽の運動だ。切断を内包した偽の連続性を、これは意図的に作り出す。

内在する死

1秒間に起こる24回の切断、それはすなわち、24回の死でもある。語源を参照するまでもなく、アニメーションは無生物に生命を吹き込み、動くはずのないものを動かそうとするものだ。止まっている絵を、止まっている人形を、止まっている粘土細工を。死んでいるはずのモノたちを。『夜の蝶』でデルヴォーの女たちは真夜中目覚めて優雅に踊り、魔法の時間が終わると再び死んでいく。『ストリート・オブ・クロコダイル』(86)などのクエイ兄弟の作品では、頭頂を切り取られた人形たちが、からっぽの頭蓋をむなしくさらしたまま動き回る。代表的アニメーション作家のひとり、ヤン・シュワイクマイエルの『自然の歴史(博物誌)』(67)にいたっては、モンタージュの魔術によって、標本や剥製までもが踊り出すではないか。フィルムの連続運動のなかには切断が刻みこまれている。フィルムの生のなかには死がはらまれている。実写映画においても絶えず暗示されているこうした事実を、アニメーションはさらに劇的なかたちでわれわれに思い知らせるのだ。運動の快楽を追求するアートであるアニメーションは、かくして、特徴としてあらかじめ持っているその条件ゆえに、運動そのものを疑問に付し、問い直してやまない。

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