南條史生●現代美術
アートの未来について考えるときには、常に現在のアートの先端的な現象を観察する ことから始めるべきだろう。
現在の特徴のひとつは、テクノロジーがアートの中で占める役割が大きくなりつつある ということである。しかし、それは単にテクノロジーを使っているから、重要なのではな い。新しい問題意識を表現するのに、新しいテクノロジーを用いることがより適切だと いう状況がもっと生まれるだろうと予測されること、またそのような状況に、新しい テクノロジーを用いて、新しいソリューションを打ち出そうとするアーティストは確 実に増えるだろうと考えられることからである。そこに新しいテクノロジーを使うこ との必然が生まれてくる。
もうひとつの特徴は、アジアを含む第三世界のアートの重要性が増していることであ る。それは結局、異質なもの、奇異なもの、エキゾチックなものを求める人間の本 能に根底で繋がっていると思われるが、その傾向は今後情報革命、旅行システムの発達によって、より加速されるだろう。
その一方で、アートは日常生活の中に入り込みつつある。パブリックアートの隆盛は そのひとつの象徴だったのではないかと思われるが、今ではそれだけではなく、さまざ まなところにその兆候が見られるようになった。それは美術館から飛び出してゲリラ 的な展覧会企画が多発した昨年の状況とも重なり合って、アートの幅広い展開、他の 領域との境界線を越え日常生活と密着していく動きへと発展している。また現在では 商品の差別化の仕掛けのひとつとして、アートのボキャブラリーが多用・援用されるようなってきた。これは一般社会のアートへの歩み寄りとも見ることができる。
このようないくつかの方向が、さまざまに交錯して21世紀のアートは、その道を切り拓いていくのではないだろうか。そこで重要になる新しい問題意識は、情報革命によ る生活の変化とその方向性、遺伝子工学にかかわる人間の生・性の倫理、生きること の意味の再考、環境問題に対する人間的・倫理的解釈、そしてさらに人間の生きる身 近な環境空間としての宇宙というものなどが登場するのではないか。
以上の結果として、将来、アートの先端は人間の生活そのものの中に、批判精神と思 考の最も自由な形態として、不定形の表現・非物質的な現象へと昇華して、形の ないものへと解消されていくのではないか。それはもはや、20世紀にわれわれが知っていたアートとは異なったものだろう。しかしそれは人間にとって別な意味をもった 存在となるかもしれない。
[なんじょう ふみお 美術評論家/インディペンデント・キュレーター/]
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林卓行●現代美術
キーワードふうにいえば、「アカウンタビリティ=説明責任」がますます重要になっ てくるのではないでしょうか。つまり、芸術家は自分の作品に対して、いま以上に「説明責任」を負うということです。そして作品はそのとき、なにより説明が可能で あることが求められます。「わからない現代美術」というのは、もう道義的に許され ない存在になったということです。しかし、すくなくとも現状では、このことはつぎのような弊害をもたらしています。
作品を通じて、説明が容易な、自明のことばかりが語られるようになってきたという こと。あるいは、美術(作品)にかんして、同じく説明が容易な、自明なことばかり が語られるようになってきた。理解が容易なシリアスさがなにより大切で、理解が困 難な、高度なシャレというものはまったく通じない。
たとえば「共生」とか、都内の年頭の展覧会でいえば、「ギフト」とか、「出会い」 とか。ほっといてもわかる(と思うのです)概念を、どうしてわざわざ美術作品を通 じて獲得しなければならないのか。あるいは、美術が(ある種の)出会いであると か、贈り物であるとかいうのは、わざわざことばにして、しかも展覧会まで開いて説明してもらうまでもない、自明のことではないのか。そんなことは気恥ずかしくて誰 もいえなかった、というだけで。
さて、以上が現状の延長線上に予想される傾向なのだとしたら、単純な「現代美術」 界のことですから、ちかいうちにこの傾向に対する反動がくる、という予想も成り立 ちます。個人的には、単純な反動でも何でもいいから、なるべくはやくいまのうっと うしい状況が変わってほしい、という気持ちです。美術が雄弁術=レトリックではな く、すぐれて高度な手や思考の技術=テクニックにかかわるものであることが、再確認されなければならない、と思います。
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