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FOCUS=21世紀美術館プロジェクト
鈴木明
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インタラクティブな建築は公共空間を生み出す――せんだいメディアテーク
「メディアテーク」――未知なる建築タイプ
1月25日、せんだいメディアテークがオープンした。仙台市の新しい公共施設である。
建築業界では、今や脂の乗りきった伊東豊雄の最新作ということで、すでに建設中から注目を集めていた施設である。柱がチューブ状でかつ有機的にくねったり、傾いたりしていて、トップライトやエレベータコアを兼ね、鉄骨ハニカム式のスラブを支える、という前代未聞の構造である。近年の建築でこれほど多くの見学者が工事現場に巡礼した例は、おそらくない。

「せんだいメディアテーク」南側外観
▲「せんだいメディアテーク」南側外観
copyright : Toyo Ito Associates, Architects
チューブライトアップ全点灯
▲チューブライトアップ全点灯
copyright : Toyo Ito Associates, Architects
チューブライトアップ全景
▲チューブライトアップ全景
copyright : Toyo Ito Associates, Architects
チューブ内の空調チャンバー
▲チューブ内の空調チャンバー
チューブ見上げ
▲チューブ見上げ(エレベータ内部より)
「それが、どうした!?」
と、あなたが不幸にして仙台市の市民だったら言うかもしれない。「建築業界における評価は俺にゃあ関係ないもんね。使い勝手こそが重要だ」と。
たしかにたしかに。
最初から「メディアテークが欲しいっ」という市民がいたわけではない。市民ギャラリー(いけばなや書道展を開催する)と図書館、市の映像アーカイブ、そして視聴覚障害者の情報センターの合築というクライアントの条件に対して、磯崎新(コンペの審査委員長)が「メディアテーク」という未知なる建築タイプを命名をしたことに始まったのだった。
メディアアートの美術館なら話は早い。ICCなど先例があるし、そもそも美術館という安定した建築タイプがある。映像や音響メディアのアーカイブ、図書館だとしても同じことだった。ところが、せんだいメディアテークは、あえてこのような既存の建築タイプを選択しなかった。それどころか、施設運営もこのようなモデルに頼ることを(運営主体自体も)しなかった。
なぜか?
設計が実施に移ってもなお続けられた「プロジェクト検討委員会」(運営やプログラム、アクティヴィティを探った)では、メディア(という技術、社会、文化)は常に進化し変化するものだから、運営組織、プログラム、装備のすべてにわたって変更可能でなくてはならないと答申が出されたからだ。また、その答申を受けて、せんだいメディアテーク「端末(ターミナル)ではなく、節点(ノード)である」という理念が出されたからでもある。
もちろん、このような宙ぶらりんな活動のイメージやプログラムは、伊東の建築、すなわち各フロアは、上記の構造によって定義するが、それ以外は(壁や部屋で)決定しないというコンセプト(後に工事中と明言した)に自信を持たされていたことは間違いない。
いやいやしかし。それでは「血税を出した」という市民は納得できまい。「そんな訳のわからん建物を注文したつもりはない」と。

公民館――公共空間としての「せんだいメディアテーク」
こんな時、いままでの建築家だったら「文化(あるいは未来)」というレトリックを、トリックのように用いただろう。この施設は文化を啓蒙するための装置である、あるいは文化を収めた箱である、と。ところが、困ったことにせんだいメディアテークは、自ら「文化」という箱(建築)に収めるべき本尊を早々と放棄してしまっているのである。本尊として祭るべき「メディア」は到達点(ターミナル)なんかではなくノード(乗り換え点)でしかない。そのかわりどんな需要に対してもフレキシブルに対応しますよ、と宣言してしまったのである。
さて、困った(ここまで書いたのは前口上で外部関係者として関わった筆者の立場のいいわけでもある)。
開館も間近になって、シンプルな解答が見つかった。
でもようやくせんだいメディアテークは「公民館」である、という答えだ。
市民は、ここにきていろんなことをする(できる)公民館である。施設自体は文化や未来を標榜したりしない。現代の公民館、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。そのかわり、サポートは手厚くしましょう。情報リテラシーや情報へのアクセスは、バリアフリー(身体的、情報能力的)にサポートを行なうものとしたのである。
これこそが、将来のすべての公共施設、生涯学習施設のモデルになるのではないか、と私は思うのである。もちろん、ジャンルごとに専門化した博物、美術や音楽の研究施設や陳列施設は今後もあってよい。しかし、情報技術とネットワークがインフラとして普及してしまっている現在はこのような既存の施設を(だれもが利用するような)公共化して存在させる理由を崩壊させてしまうのではないか?
さて、ここまではメディアテークという建築タイプ(建築類型)が成し得た、そして切り拓いた可能性を身内の立場から、評価してきた。
せんだいメディアテークが生み出した可能性はもうひとつある。
せんだいメディアテークは「公民館」であると言った。それならば、利用者に与えられる空間は「公共空間」である。語呂あわせではない。現代に生きる市民は別に街なかに広場(60年代以来のフレーズである)を求めていない(広場があるとすれば、ホームレスのための安息の空間である)。もちろん、公共空間はディズニーランド的な、ラスベガス的な、あるいはジョン・ジャーディ的な消費の空間でもない。
公共空間は市民が自由にコミュニケーションを行ない(行なうチャンスがあり)、自由に生産できる空間でなければならない。そのためのインフラストラクチャーは情報ネットワーク(これはすでにわれわれが大方持ち得ている)であり、利用者のリテラシーがサポートされるべきである。これにはだれもが異論を挟む余地はない。

開放されたオフィスとしての「せんだいメディアテーク」
このような公共空間が行政主導で作られるべきか、市民が自ら獲得するべきかは、これから議論しなくてはいけないテーマとなろう。しかし、建築家が将来、生き残っていくとすれば、このようなテーマに対してプロフェッショナルな提案を持てるかどうかに関わっていると思う。
さて、せんだいメディアテークにはリアルな課題が残されている。私もインタラクション・デザインの立場から大きく関与していかざるを得ない。せんだいメディアテークという出来あがった公民館に「公共空間をどう定着させるか?」である。
デザインの目標は定まっている。「オフィス」である。オフィスは20世紀の間中、情報生産の空間であり、機能主義とモダンデザインの表現であった。しかし、この生産のための空間は一度も公共空間として開放されることなく、資本に独占され続けてきたのである。情報インフラにだれもが取りつくことが出来る現在、生産の場である「オフィス」は再定義(リデザイン)されなくてはならないのである。
幸い、せんだいメディアテークでは、シアターや図書館、ギャラリーを除いて、ほとんどのスペースが利用者の「オフィス」利用のアイディアのために開放されている。伊東が直感的に、利用者の都合によって編成されるべき空間、つまり工事中と呼んだ空間である。
開館したせんだいメディアテークでは老若を問わず、ネットにつながったコンピュータに殺到している。しかし、ネットサーフィン程度は、もちろんオフィス利用としてはまだまだ序の口である。インキュベーションのための利用も可能である。もちろんNPOによる活動がここをスマートなオフィスとして行なわれることがあったらなおよい。

1階 案内カウンター
3階 ライブラリー書架
▲1階 案内カウンター
3階 ライブラリー書架 デザイン:KTAアーキテクツ
このオフィスは、よく言われる「スーパーフラット」な文化を担うオタクの空間にはなって欲しくない、と思う。なぜなら彼らの過ごす空間にはコミュニケーションと生産性はなく、閉鎖的ナルシズムの文化(文化といいたいのなら)しかないからだ。
最後に、オフィスにランドスケープが導入され、立場のメタファとしてのコミュニケーションなき労働の空間が、多元的なコミュニケーションの生産の空間になった時の初々しい情景を引用しよう。

スペイスの組織がたんに労働者の動きの力学だけでなく、部分的には社員自身の選択によって決められるのもよしとされる。その決定の位置要因となるのは、ほかのひとびとの関係だ。こうして、景観的オフィス(筆者註:ランドスケープ)されたオフィスは、行動の異なる標準を提示した。つまりひとびとに仕事中仮面をかぶらざるをえなくさせていた非個人性が、個人の「オープンさ」とか、個人としての他人の理解にもとづく規範とか、そういうものにとって代わられたというわけである。そこは、みんなが和気あいあいにつきあいを楽しむ、といった場に見えた。
(アドリアン・フォーティ『欲望のオブジェ』)

オフィスのランドスケープの理想をこうアドリアン・フォーティは説明する。抑圧的な管理体制はきらわれ、新たにオフィスワーカーとして家庭から解放され参入した既婚女性をも抱き込み、オフィス空間に誠実な人間関係を築こうとするものだった。すでに半世紀前からオフィスはオートメーション(モダンな生産の概念)を志向しながらも、つねに労働環境のなかにコミュニケーションというインタラクションを渇望し続けていたのである。
メディアテークは、ハードとしての情報環境を備えるだけでは依然としてハコでしかない。ここでは人と人が出会い、コミュニケーションが発生するための機会、すなわちホスピタリティを元にしたインタラクションが発生してはじめて何かが生産されるのである。メディアテークという未知の建築での経験はわれわれが将来、労働とも学習とも、また今までの「文化」という枠組みとも異なった新しいメディア技術との付き合い方を先見的に示そうとするものである。

追記:オープンして数週間が過ぎた(2月10日現在)。メディアテークという未知の公共空間には、毎日1000人を超える「市民」が押しかけている。ひとりで受験勉強を行なうにはあまりにも開放的なテーブルやチェア(ロス・ラブグローブ作)、ビデオをオタク的に見るには明るすぎるヴィデオ・ブース、デパートのエントランスのごときショップとカフェにたむろする客が混在する中でのパフォーマンス(オープニング・イベントのコンサートやワークショップ)等々に毎日、何かを求めて人がやって来ている。決められたプログラムや順路のない「公民館」だが、市民はここに居心地のよい場所をめいめいが発見しつつあるようだ。

[すずきあきら 建築批評]

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