FOCUS=日本映画の現在 |
とちぎあきら
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不幸の知らせを受けた日の夜、クローゼットから黒いドレスを出してきた家人が、喪服を手にしたまま、怪訝な顔を浮かべていた。何やら酸っぱい臭いがすると言うのだ。どれどれと、生地に鼻を近づけてみると、確かに臭う。20年ほど前に買って以来、一度も着たことのない服だという。裏地についているラベルを見て、驚いた。何とそこには「アセテート65%、ポリエステル35%」と書いてあるではないか。筆者は現在、東京国立近代美術館フィルムセンターに客員研究員として勤めているのだが、このアセテートと酸っぱい臭いという組み合わせは、フィルム・アーカイヴに身を置く者にとって、すぐに劣化したフィルムの存在を連想させてしまうのである。 周知のごとく、映画フィルムとは、露光によって写真化学的な反応を起こす銀塩粒子がゼラチンと混じり合った乳剤(エマルジョン)と、この感光層を支えているベースとの二層から成り立っている。映画の誕生以来、フィルムベースには、綿などの天然繊維素であるセルロースの水酸基がニトロ化した、ニトロセルロース(ナイトレート)が使われてきた。しかし、これは窒素の含有量が変われば綿火薬にもなる可燃性物質であり、映画館や倉庫が大火災に見舞われることも少なくなかった。そこで50年代になり、ニトロ基を酢酸基に変えたトリアセテート・セルロースが登場。不燃性のセイフティ・フィルムとして広く普及するようになる。ところが、このフィルムベースにも致命的な欠点があることが、10年ほど前から判ってきた。フィルムを高温多湿の状態に長期間置いておくと、トリアセテートが加水分解を起こし、酢酸ガスが発生する。このガスがベース面を縮ませたり、カラーの退色を促進したりするというのである。こうした一連の現象を、アーカイヴ関係者は「ビネガー・シンドローム」と呼んでいる。 実は、このトリアセテート・セルロースと基本的に同じ構造を持っているのが、人絹とも呼ばれるアセテート繊維なのである。つまり、クローゼットのなかに長年しまいこまれていた喪服が発する臭いも、劣化したフィルムから発生する臭いも、その正体は同じなのだ。酢酸臭の脅威を前にして、フィルムの世界では、従来のアセテートから、より吸湿性が低く強靭なポリエステル(ポリエチレン・テレフタレート)への転換が進んでいる。「酢が立った」アセテートとポリエステルの混紡による家人の喪服とは、まさにフィルムベースの世界の現在形そのものだったわけだ。その意味で、肌理こまかな映像とか艶のある画面といった形容は、単なるアナロジーに過ぎないとは言えないのである。 繊維−時間の運動『White Tablecloth』 ここでは、テーブルクロスという素材がこのような運動を視覚化させるキャンバスの役割を果たしていることに注目したい。狩野は、綿密な編集作業を通して時間的配列を組み換えることにより、布に染み出た水の波紋が作り出す収縮運動を演出してみせた。その姿勢ははからずも、彼女が生まれる10年も前から実験映像を作りつづけている奥山順市が、94年に発表した『浸透画』という作品を思い起こさせる。浸透現像という技法を用いて、素材の陰影をそのままフィルムに定着させた奥山の作品は、伝統的な染めの技術からインスピレーションを受けたものだったという。技法上の違いや素材に対するアプローチは異なるとはいえ、『White Tablecloth』もまた、「染み」が「染め」に変わる微妙なあわいを捉えることになった。そして、この転位を可能にさせている繊維特有の浸潤という現象が、時間性という作品固有の主題と見事にクロスしてくるのである。狩野は昨年、『揺れる椅子』という16ミリフィルムの作品も発表している。カーテン越しに差し込む光が微妙な彩を織りなす白い部屋、その窓辺に置かれた一脚のロッキングチェア。ここでも、外から受けた風にたおやかに揺れるカーテンの裾が、光や椅子の運動とあいまって時間のアンサンブルを創出させている。どうやらこの作家の想像力には、映像に対する「繊維的無意識」というものが常に働いているようだ。 マテリアルとしての映像/フィルム 8ミリフィルムは、80年代後半から製造、販売、現像の中止が相次ぎ、当時の個人映像作家にとって、8ミリはもはや死に絶えたメディアであるかのように思われた。映像というものが、最終的なルックを決める現像を含めて、いかに産業的な環境によって左右され、その基準によって標準化されてきたかを、改めて思い知らされたわけである。そして現在、デジタル・メディアの隆盛についても、その背後に、単に映画フィルムだけでなく、写真を含めた銀塩製品全体が相対的に地盤沈下を起こしているという現象を伴っていることが明らかになっている。だが、若い映像作家たちにとって、こうしたなし崩し的な事態はもはや所与の条件なのだ。だからこそ、フィルムの持つ物理的特性や作品制作という工程に係わるさまざまな要素を、写されている内容と等価のものとみなすことは、とりたてて特異な意識でも尖がった態度でもないのである。狩野は、自作の解説として、次のような文章を残している。「人物は主人公ではない。むしろ風景と同等に扱われている。同時に被写体とその支持体であるフィルムの存在も同等に扱い、両者のもつ時間の差異を提示した」★2。昨年、横浜美術館で開かれた「映像前夜」というグループ展には、彼女を含め同世代の映像作家たちが8名参加したが、そこに出品していた石田尚志や三宅流らの作品にも、このような表象と素材への等価なまなざしをうかがうことができるだろう。 作家の「繊維的無意識」が、マテリアルとしての映像の基部を洗い直そうとしている。それなら私たち観客も、柔らかな風合いを持つテーブルクロスを愛しみつつ、新たな肌理と光沢を持つ映像の到来を待ち望むことにしよう。 ■註 ★1――末岡一郎「8mmフィルムを『自家現像』する」(山崎幹夫編集『8mm映画制作マニュアル2001』) ★2――狩野志歩『情景』解説(「映像前夜」事務局編集『横浜美術館上映カタログ』、2000) [とちぎあきら 映画批評] |
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