国際展をめぐるアポリアと横浜トリエンナーレ
「横浜トリエンナーレ2001」展が開かれている。定期的に開催される現代美術の国際展としては初めてといっていいが、国際規模ではすでに1970年に、毎日新聞社の主催で「東京ビエンナーレ’70 人間と物質」展が、中原佑介によって企画されたことがある。はるか30年前のこととはいえ、国内での現代美術の国際展開催の評価として、こういった比較の例が一件しかないという事実は、事実としておさえておくべきだろう。
現在、世界各国で同種の催しが約20ほど開かれている。それは、世界共通の視覚言語(=普遍言語)という、ひとつの「幻想」とも「民主主義的希望」ともいうべき〈了解項〉の下に成り立っているといえよう。この幻想を〈バベルの塔〉の運命に重ね合わすと、そこでの国際的な共時的次元と、それぞれローカルな美術表現の独自の価値をもつものとの摩擦をどのように位置づけるのか、という問いがせり上がってくる。その差違をどうあぶりだすのか。あるいは、その限りなき無化の過程を提示するにしても、国際展をめぐるアポリアは依然、存在している。
こういった国際展開催の意義を、かたぐるしい論議として排除できない時間帯に、私達はまだいることを忘れてはならないと思う。このような物言いに対し、それは20世紀モダニズムの限界であって、ポスト・モダンの〈現在〉にあっては解決した問題だ、などと平然とのたまう人がいないことを願うばかりである。
ともあれ筆者は上記の点を含め、この「横浜トリエンナーレ2001」展をめぐるいくつかの基本的問題点については「ART・AsiaPacific」(第32号、2001年10月発行、オーストラリア)誌の批評コラム欄に寄せたので、ここでは繰り返さないことにする。しかし以下のことだけ、つけ加えておきたい。
まず「メガ・ウェイブ――新たな総合へ向けて」という展覧会のテーマについてである。一般向けにある程度「柔軟さ」をもたせることは避け得ないことだが、しかし今回のそれはあまりに柔軟にすぎ、かつナイーヴすぎたといえる。一言でいえば、テーマに批評性が盛り込まれていない、ということだが、百歩譲ってそれを無視するにしても、ディレクターたちはすくなくともこれだけは、という作家・作品の選択によって、ある筋道をあぶりだして主張すべきではなかったのか。
ディレクター4名を並列させるという、異例の人数の多さからみて、当然、意見の亀裂やズレがあったはずである。というより、むしろ無いほうが変なのであり、せめても、出展内容においてはそれを隠すことなく、それぞれの思い込みの深さ、強引さ、というものを覗き込みたかったような気がする。つまり、4名バラバラだが、その亀裂がプラス面に転化するような事態の露出も期待できたはずだ。が、そのように表われなかったのは残念だと思う。
さてここからは、気になった個別の作品について記してみる。すでに報道されているように、映像作品が多かったのは事実だが、総じて、もはや現代の古典というべきビル・ヴィオラやゲイリー・ヒルの仕事の質を上回るものはなかったといえよう。ピピロッティ・リストにも、今回は失望を感じた。現在、東京オペラシティアートギャラリーで開催中のイスタンブール・ビエンナーレの映像を中心に集めた「エゴフーガル」展の出品作のほうが、はるかにアクティヴな問題提起がなされていると思う。
●ウィリアム・ケントリッジ
「横浜トリエンナーレ」のなかでは、古典的といえば古典的な手法によるウィリアム・ケントリッジのアニメーションは、深い美的叙情を湛えつつ、社会的背景の暗喩があり、かつそのイメージの広がりをもっており、長時間の凝視を強いられた。設定場所は最善といえないにもかかわらず、インスタレーションは上手になされていた。
●フィオナ・タン
またフィオナ・タンのドキュメンタリー映像は、三十三間堂での女性の成人式などを長時間撮影し上映したものだが、日本の既存の同種の映像からは感じとれない「他者の眼差し」として注目すべき作品である。たとえば、NHKカメラマンによるそれと比較してみれば、はっきりとした違いがわかるだろう。
カットの長さと対象へのアングルとフレームの切り取りかた、つまりはすべてにわたって映像における既成の「読みかた」を裏切っている。それは、異邦人が女性をめぐる日本の伝統的な儀式・習慣と向き合っているから、という文化差のせいではなく、プレゼンテーションの脱臼効果というべきなのか、その時間の操作と批評的な再構築の手法に圧倒された。古い言葉だが、反ドキュメンタリーの、そしてアンチ・ロマンのそれ、といっておく。
●杉本博司
こういった流れで眼を引いたのは、杉本博司の蝋人形を撮影したシリーズである。同時期に開催したギャラリー小柳での発表と共にインパクトがあった。その仕掛けが単純で明快な分だけ、ヒューマニズムの根底的な否定性が顕現している。後者ギャラリーでの昭和天皇の肖像も、そういった戦略の下で奇抜な露出性が抑えられている。視覚の不安定さを暗示しながら、その宙吊りにされた視覚映像の前面化は、鑑賞者に画像と正面から相対させる古典絵画の展示技法を擬していることによって、さらに効果が増幅されていた。
●やなぎみわ
やなぎみわの作品は、写真に潜む物語性を逆手にとったいささかきわどい表現だ。女性の「老い」を正面に据えているようにみえるが、むしろ記憶の中に鮮明なイメージが宿っていることを反語的に誘いだしているようだ。このきわどい画像を前にして最終的に「眼を閉じる」ことを要請しているのかも知れない。
●束芋
束芋の日本の通勤列車内を映像化するアニメは、多面的に投影し立体化させた作品として労作。エンタテイメントとしては秀逸である。最初は面白くやがて悲しき通勤電車の光景の再現だが、そのパロディックな臨場感は、理論上は簡素な仕掛けだが、複数のプロジェクターのインスタレーションを含め、イリュージョンの立ち上がりとその起源をあらためて想い起こさせた。
●刀根康尚
「『進歩』という概念を克服することおよび『衰亡の時代』という概念を克服することは、同じ事柄の両面にすぎない」、などの警句をW・ベンヤミンの『パサージュ論』から引いて、それをいわゆる美術館の音声ガイドの技術を利用し、音のインスタレーションとした刀根康尚の作品は、19、20世紀を通して「見ることの欲望」を博覧会的展示方法に付託した西ヨーロッパの歴史の流れを、この博覧会美術展の只中でパロディにしてしまった感がある。
冷笑的なパロディへと向かう作品
あらためて「横浜トリエンナーレ2001」全体の作品傾向は――もはや使い古された言葉だが――パロディックといえまいか。この感想は、この美術運動なき時代の博覧会的美術展だけが突出する「現在」にあって、シリアスな社会批判を盛り込んだ作品にすらパロディックな様相をみてとってしまいがちな筆者だけのものではないと思う。正確には冷笑的なパロディというべきか。そういえば19、20世紀美術はそういった姿勢から生産されてきた面が強い。それがはたして21世紀に持ち越されているのだろうか。
刀根のロボット的音声には、こんな19世紀前半のヴォードビルの一幕からの科白が入っていた。
「ご理解いただきたいのですが、パリにすべての街路をガラス屋根で覆わせたいのでありまして、そうするときれいな温室になります。その中でわれわれはメロンのように暮らすというわけです」(W・ベンヤミン『パサージュ論』A10、3)。
「横浜トリエンナーレ2001」展が開かれている。定期的に開催される現代美術の国際展としては初めてといっていいが、国際規模ではすでに1970年に、毎日新聞社の主催で「東京ビエンナーレ’70 人間と物質」展が、中原佑介によって企画されたことがある。はるか30年前のこととはいえ、国内での現代美術の国際展開催の評価として、こういった比較の例が一件しかないという事実は、事実としておさえておくべきだろう。
現在、世界各国で同種の催しが約20ほど開かれている。それは、世界共通の視覚言語(=普遍言語)という、ひとつの「幻想」とも「民主主義的希望」ともいうべき〈了解項〉の下に成り立っているといえよう。この幻想を〈バベルの塔〉の運命に重ね合わすと、そこでの国際的な共時的次元と、それぞれローカルな美術表現の独自の価値をもつものとの摩擦をどのように位置づけるのか、という問いがせり上がってくる。その差違をどうあぶりだすのか。あるいは、その限りなき無化の過程を提示するにしても、国際展をめぐるアポリアは依然、存在している。
こういった国際展開催の意義を、かたぐるしい論議として排除できない時間帯に、私達はまだいることを忘れてはならないと思う。このような物言いに対し、それは20世紀モダニズムの限界であって、ポスト・モダンの〈現在〉にあっては解決した問題だ、などと平然とのたまう人がいないことを願うばかりである。
ともあれ筆者は上記の点を含め、この「横浜トリエンナーレ2001」展をめぐるいくつかの基本的問題点については「ART・AsiaPacific」(第32号、2001年10月発行、オーストラリア)誌の批評コラム欄に寄せたので、ここでは繰り返さないことにする。しかし以下のことだけ、つけ加えておきたい。
まず「メガ・ウェイブ――新たな総合へ向けて」という展覧会のテーマについてである。一般向けにある程度「柔軟さ」をもたせることは避け得ないことだが、しかし今回のそれはあまりに柔軟にすぎ、かつナイーヴすぎたといえる。一言でいえば、テーマに批評性が盛り込まれていない、ということだが、百歩譲ってそれを無視するにしても、ディレクターたちはすくなくともこれだけは、という作家・作品の選択によって、ある筋道をあぶりだして主張すべきではなかったのか。
ディレクター4名を並列させるという、異例の人数の多さからみて、当然、意見の亀裂やズレがあったはずである。というより、むしろ無いほうが変なのであり、せめても、出展内容においてはそれを隠すことなく、それぞれの思い込みの深さ、強引さ、というものを覗き込みたかったような気がする。つまり、4名バラバラだが、その亀裂がプラス面に転化するような事態の露出も期待できたはずだ。が、そのように表われなかったのは残念だと思う。
|
|
▲ウィリアム・ケントリッジ『薬棚』 |
|
▲フィオナ・タン『サン・セバスティアン』 | |
▲杉本博司『最後の晩餐』(部分) | |
▲やなぎみわ『マイグランドマザー』シリーズ | |
▲束芋『にっぽんの通勤快速』 |
●ウィリアム・ケントリッジ
「横浜トリエンナーレ」のなかでは、古典的といえば古典的な手法によるウィリアム・ケントリッジのアニメーションは、深い美的叙情を湛えつつ、社会的背景の暗喩があり、かつそのイメージの広がりをもっており、長時間の凝視を強いられた。設定場所は最善といえないにもかかわらず、インスタレーションは上手になされていた。
●フィオナ・タン
またフィオナ・タンのドキュメンタリー映像は、三十三間堂での女性の成人式などを長時間撮影し上映したものだが、日本の既存の同種の映像からは感じとれない「他者の眼差し」として注目すべき作品である。たとえば、NHKカメラマンによるそれと比較してみれば、はっきりとした違いがわかるだろう。
カットの長さと対象へのアングルとフレームの切り取りかた、つまりはすべてにわたって映像における既成の「読みかた」を裏切っている。それは、異邦人が女性をめぐる日本の伝統的な儀式・習慣と向き合っているから、という文化差のせいではなく、プレゼンテーションの脱臼効果というべきなのか、その時間の操作と批評的な再構築の手法に圧倒された。古い言葉だが、反ドキュメンタリーの、そしてアンチ・ロマンのそれ、といっておく。
●杉本博司
こういった流れで眼を引いたのは、杉本博司の蝋人形を撮影したシリーズである。同時期に開催したギャラリー小柳での発表と共にインパクトがあった。その仕掛けが単純で明快な分だけ、ヒューマニズムの根底的な否定性が顕現している。後者ギャラリーでの昭和天皇の肖像も、そういった戦略の下で奇抜な露出性が抑えられている。視覚の不安定さを暗示しながら、その宙吊りにされた視覚映像の前面化は、鑑賞者に画像と正面から相対させる古典絵画の展示技法を擬していることによって、さらに効果が増幅されていた。
●やなぎみわ
やなぎみわの作品は、写真に潜む物語性を逆手にとったいささかきわどい表現だ。女性の「老い」を正面に据えているようにみえるが、むしろ記憶の中に鮮明なイメージが宿っていることを反語的に誘いだしているようだ。このきわどい画像を前にして最終的に「眼を閉じる」ことを要請しているのかも知れない。
●束芋
束芋の日本の通勤列車内を映像化するアニメは、多面的に投影し立体化させた作品として労作。エンタテイメントとしては秀逸である。最初は面白くやがて悲しき通勤電車の光景の再現だが、そのパロディックな臨場感は、理論上は簡素な仕掛けだが、複数のプロジェクターのインスタレーションを含め、イリュージョンの立ち上がりとその起源をあらためて想い起こさせた。
●刀根康尚
「『進歩』という概念を克服することおよび『衰亡の時代』という概念を克服することは、同じ事柄の両面にすぎない」、などの警句をW・ベンヤミンの『パサージュ論』から引いて、それをいわゆる美術館の音声ガイドの技術を利用し、音のインスタレーションとした刀根康尚の作品は、19、20世紀を通して「見ることの欲望」を博覧会的展示方法に付託した西ヨーロッパの歴史の流れを、この博覧会美術展の只中でパロディにしてしまった感がある。
冷笑的なパロディへと向かう作品
あらためて「横浜トリエンナーレ2001」全体の作品傾向は――もはや使い古された言葉だが――パロディックといえまいか。この感想は、この美術運動なき時代の博覧会的美術展だけが突出する「現在」にあって、シリアスな社会批判を盛り込んだ作品にすらパロディックな様相をみてとってしまいがちな筆者だけのものではないと思う。正確には冷笑的なパロディというべきか。そういえば19、20世紀美術はそういった姿勢から生産されてきた面が強い。それがはたして21世紀に持ち越されているのだろうか。
刀根のロボット的音声には、こんな19世紀前半のヴォードビルの一幕からの科白が入っていた。
「ご理解いただきたいのですが、パリにすべての街路をガラス屋根で覆わせたいのでありまして、そうするときれいな温室になります。その中でわれわれはメロンのように暮らすというわけです」(W・ベンヤミン『パサージュ論』A10、3)。