磯崎道佳新作個展
いつかどこかで、あるいは つづく つづく つづく |
磯崎道佳(いそざきみちよし)
1968年水戸生まれ、
1996年多摩美術大学大学院美術研究科修了。
1998年12月3日からギャラリー日鉱にて
個展「いつかどこかで、あるいは つづく
つづく つづく」を開催。
初日には作家によるパフォーマンスも行なわれた。
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会場:ギャラリー日鉱(東京)
会期:1998年12月3日〜25日
問い合わせ:Tel 03-5573-6644 |
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新作個展オープニングでのパフォーマンス
1998年12月2日
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ケンゴ
磯崎さんの作品は本人は彫刻家と名乗ってはいるものの、僕達が普通思い浮かべるような「彫刻」の形式には捕らわれないような作品を発表していますね。そういった、例えば美術、もしくは彫刻といったものに自分の表現を落とし込もうと思ったきっかけが何かあれば教えてください。
磯崎
やっぱり高校生の頃って将来どうしようとかそういうこと考えるでしょ。僕は文章も好きだったし芝居も好きだったし音楽も好きだったから、作家というかクリエイターになりたいというのはあったんですよ。それで音楽少年でパンク少年だったから、持ってるお金はほとんどライブハウス行ったり、インディーズのレコード買ったりね、音楽につぎ込んでいたんだよね。でも自分が何をやりたいかっていうはっきりしたものは見つからなかった。僕の気持ちがダイレクトに伝わるものが何かあるとは思ってたんだけどね。そんなとき、たまたまテレビで見た大竹伸朗がすごくショックだった。きたないジージャン着てすごく態度が悪くて、「やっぱさあー」とか言ってて(笑)。うわーこれはすごいパンクスだ!とか思って。それでちょうど彼の作品を見る機会もあってそれもすごくおもしろかったんだよね。
ケンゴ
その頃は展覧会に行く習慣とかあったりしたんですか? |
磯崎
ちょうど雑誌なんかで見て行き始めた頃。もうひとつショックだったのは、当時けっこう話題になってたんだけど東京都美術館でやったジョナサン・ボロフスキー展。これもたまたま雑誌で見て行ったら、かなり衝撃的だった。壁にルビーが埋め込んであったり、卓球台が置いてあって卓球してたり(笑)、小さな人型のオブジェがいっぱい並んでいてペチャクチャ何か喋ってたり、ルール無用っていうか何でもありって感じで。そのときはよくわからなかったんだけど、雑誌でスカルプチャーって紹介されていたから、これって彫刻なんだって思って……よし、これやろう!と思ったんだ。当時日比野克彦とかの立体作品とかもあったんだけど何か薄っぺらい感じがして、ワルそうじゃないっていうか(笑)、優等生っぽくて。そんななかで大竹伸朗は不良だし、ボロフスキーはムチャクチャやってるし(笑)、高3だったんだけど、彼等の作品がムチャクチャ楽しくて。 |
Untitled 1994
ドローイング、マジック、ぬいぐるみ
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個展「トライしてみよう」1994
子供服、ぬいぐるみ、玩具、ゴム栓
撮影:西 光一
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ケンゴ
そして多摩美術大学の彫刻家に入学するわけですが。
磯崎
うん。ただ基本的に美術大学というのは思ってるほどそんなに自由ではないね。課題もあるし。
ケンゴ
でも「大学」なんだし最初は基本修練があるっていうのはわかってたんでしょう。 |
磯崎
そう。それがね、ある意味では楽しいわけですよ。木を削ったり、石を彫ったりとか、そういった職人ぽいことを習うんだけど、今までいろいろやりたくてもそういう環境がなかったわけでしょ。それが大学入ってそういう設備とか揃ってるわけじゃない。粘土で何かでかいものつくりたいって思えばつくれる環境があるわけ。それですごく楽しかったんだけど、あるとき気づいたんだよね。あ、これは楽しまされてるなって。すごくハマリやすい状況がつくられていたわけ。ボロフスキーのことも忘れてたもん(笑)。 |
個展「SHU-PO-PO」1995
なわとび、子供服、紙袋、ファンモーター、鉄
撮影:安斎重男
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ケンゴ
その状況というのはつまり、大学教育のなかで行なわれるような「彫刻」というものが自明のものとして受け止められてしまうような状態のことを言ってるわけですか。
磯崎
そうだね。ただ彫刻には絵画とは違う現実的な固有の問題がやっぱりあって、例えばひとつ構造の問題をとっても、ちゃんと重心を考えてつくらないとちゃんと作品が立たなかったりするわけ。だから自分のつくりたいビジョンもそういった数々の問題を押さえた上にあるわけなのね。だからモダニズムの見地から言っても彫刻というのは絵画に比べて原始的というか進展しにくい形式なんだよ。まあ、だから最初の1、2年でそういうことを学べたのは良かったけれど。 |
無題 1997
ぬいぐるみ、ゴム栓
撮影:安斎重男
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ケンゴ
楽しまされてるなって気づいた、ということについてもう少し詳しく話してください。
磯崎
土屋公雄、戸谷茂雄、遠藤利克とかのポストもの派、おもしろいと思って見てはいたんだ。でも、じゃあ自分がつくりたいものって考えたとき、そういったものが今の彫刻ではいいものなんだって言われても、それはただ思い込まされている部分もあるんじゃないかと思って。 |
ケンゴ
つまり美術自体の情報があまり流通してないから、狭い大学のなかの、例えば教授連中の言葉のなかだけの情報しか得られないなかではいろいろと相対化できないことに気づいたと。
磯崎
そう。音楽雑誌なんかだったらそれぞれの雑誌でレコメンドが違うわけじゃない。それが美術の場合ないんだよね。そういうなかで自分はどうやろうと思ったとき、國安孝昌、椿 昇とか作家のアシスタントをする機会があって現場に立ち会ったとき、大学の教授達とは違う、本当の意味で今やっている作家の声を初めて聞くことができて勉強になった、と言うのは変だけど、いろいろとヒントをもらったということはある。それで今までやってた木とか石だとかを使って表現してたことにリアリティを感じられなくなってきたんだよね。じゃあ僕の場合はなんだろうってことになって、今やっている子ども用品だとか玩具とか、子どもが一番最初に手にするもの、そういうものを使って作品をつくるようになったんだ。
ケンゴ
ではどうしてそういうものを素材にするようになったんでしょうか? |
磯崎
最初は自分でもよくわからなかったんだ。ただ、きっかけとしてその当時僕と同じようなものを使う作家が少しずつ出てきたということもあった。海外ではマイク・ケリー、日本ではヤノベケンジとか中原浩大、あと村上 隆のサブカルチャー路線とか……。そういうのがアートに入ってきて、それもきっかけのひとつとしてはあると思う。ただそれはあくまでもきっかけに過ぎなくて、僕は生まれてすぐ1歳から4歳までニューヨークに住んでたんだよね。その頃は自分はアメリカ人だと思ってた(笑)。それで日本に帰ってきてなんで俺はこんなところにいなきゃいけないんだって感じで「家に(ニューヨークに)帰りたい」って言ってたらしいんだよね。それで幼稚園に入ったんだけど、僕だけが日本語で自分の名前が書けなかったんだ。それでひとりで教室に残ってて、すごい疎外感みたいなものを感じてたんだよね。それから自分で変わったというか頭をチェンジさせて半年くらいである程度日本語をマスターしたんだ。そうしたら英語をすっかり忘れてしまったのね。 |
FUKU-MAN
TEMPORARY SPACE(札幌)での
パフォーマンス
撮影:森内秀行
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FUKU-MAN
TEMPORARY SPACE(札幌)での
パフォーマンス
撮影:森内秀行
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ケンゴ
何か入れ換えなきゃいけなかったのかな。
磯崎
今考えれば多分そうだと思う。それからも父の仕事の関係で引越しが続いて……子どもにとって引越しってキツイでしょう。友人関係も限定されちゃうし。それで小学校3年のときに沖縄に行くことになって、そしたらもうぜんぜん違うんだ、環境も価値観も。例えば戦争のことについても沖縄の人にとってはアメリカ兵にだけではなくて日本人にも殺されたんだということを小学校の授業で先生が話すわけ。それで今まで日本であたりまえだと思っていたこも絶対じゃないってことがわかったっていうか、世界は複雑なんだと。そういうことを小さいときに思い知らされちゃったんだよね。
ケンゴ
落ち着いてアイデンティファイできる状況じゃない。
磯崎
安定がなくなちゃったっていうか、そんなとき自分にとってよりどころになるものって言ったら、やっぱりドリフはどこ行っても笑えるとかさ、ドラえもんやウルトラマンはどこへ行っても子どもにとってのヒーローだとか、そういう子ども達みんなが共有できる価値観ていうかさ……そういうものに自分がよりどころを求めちゃったということはあると思う。家族にしても、その家族の仕事の関係で何度も引越しさせられているわけだから、ある意味親に対して恨み的なものを持ってたりしたからさ。自分には故郷がないっていうか。
ケンゴ
そうした体験のなかでテレビヒーローだとかお気に入りの洋服だとかによりどころ、安心感を求めるようになってしまったと……。 |
磯崎
そう。気持ちのいい毛布とか、触覚的な安心感とかね、そういうことを必要以上に求めちゃったってことはある。それが作品をつくるうえで自分のなかから出てきたものだったんだ。だから素材派っていうかポストもの派にしてもぜんぜんリアリティ持てなくなっちゃったわけ。やっぱりあれってさ、自然観とか宗教観とか、なんか日本ていうものを演じなきゃいけない部分てあると思うんだよね。でも大学ではみんなそんなことやってんだよね。
ケンゴ
何で同世代の連中までがそんなところに着地して安心してんだよ、みたいな(笑)。でも最初に形式あらず、と言っているわりには彫刻っていうものにこだわっている部分もありますね。
磯崎
そうだね。いわゆる彫刻という形式をもっと広げて考えていこうと思ったときに今何が重要かって言うと、パブリック、つまり公共性だと思う。日本ではこの言葉を履き違えている部分があると思うんだけど。例えばミュンスター彫刻プロジェクトではフィッシュリ&ヴァイスが菜園つくってたじゃない。なんでそういうものが彫刻として成立するのかなって考えたときに、彫刻ってさ、目の前にポンと置かれたら有無を言わさず目に入ってくるでしょう、っていうかそういう環境をつくっちゃう。そのへんは鑑賞の形式がある絵画とは違うと思うんだ。だから「彫刻」と「スカルプチャー」って言葉の一番の違いは公共性ってことだと思う。それは明らかにモニュメントとかそういう意味ではないと思うんだ。物体がどうしたって発してしまうようなことっていうか。それで僕は僕なりにそのキーワードを使って自分の作品を「彫刻」に繋げることができると思うんだよね。
ケンゴ
たしかに日本と欧米では「彫刻」、いや「スカルプチャー」という概念の受け止め方はかなり違うんじゃないかって思いますね。今の話でいけば、例えばギルバート&ジョージにしても。
磯崎
そう。日本では彼等のリビング・スカルプチャーという作品に対して、やった者勝ちとかアイデア一発だよね、みたいな受け取り方をされてしまうけど、実はあれは彼等の歴史の流れのなかから純粋に現われくるものだと思うんだよね。そうじゃなかったら今だにやってるわけないよ。
ケンゴ
今回の新作個展について聞きたいんですが、子どもの古着を使ってパラシュートをつくるということですね。 |
個展「見張り塔からずいっ〜と」1997
個展「見張り塔からずいっ〜と」1997
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磯崎
そう。前回の展覧会(左)ではコミュニケーションという意味での他人との距離感と、自分が安心できる領域というもの、つまり他人と自分のとの間にある心の壁みたいなものを城壁という形で表わしてみたんだよね。自分と外の世界との間にあって僕達に安心を与えてくれた子どもの洋服でね。そういう意味では子ども用品ていうのはある意味では自分にとって命綱的なものかなって思って。そういったものに人がぶら下がってるっていうかさ、そういうイメージからパラシュートという形がでてきたんだ。ただ、展覧会をするにあたってパラシュートをつくりました、展示しましたじゃあ見る人もわかんないだろうって思ったんだよね(笑)。それだけだと結局「もの」をつくったただの彫刻家のまんまでしかないと思ったわけ。だから自分がその作品をつくっていくなかでの作品との対話、プロセスそのものを一緒に提示したいと思っている。今回はそのパラシュートを使って飛ぶところも見せたいと思ってるんだ。でもあたりまえのことなんだけど、子どもの古着でつくったパラシュートで飛べるわけないんだよね(笑)。成功するわけがないんだ。だからある意味で失敗を前提としてずっと作品をつくっていきたいとというか、作品と対話していきたいっていうことを考えてる。終わりなき制作をしてみようと。終わった結果の作品ではなくてね。生きている作品というか、ある意味一生完成しなくていいっていうか。とにかく今回は混沌とした状態を見せたいと思ってる。それがだって今の僕だしね。 |
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(新作個展のための撮影現場にて)
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