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美術の基礎問題 連載第1回
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はじめに

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 ある事情により、いきなり新連載を始めることになりました。
 内容をひとことでいえば、美術の諸制度をめぐる考察です。諸制度とは、ここではとりあえず「美術館」「画廊」「展覧会」を指します。それらがどのように成立し、どのような変遷を経て現在にいたっているかを振り返ってみたいということです。さらに、それら諸制度からはみ出した「パブリックアート」や「アーティスト・イン・レジデンス」についても考察を加えたいと思います。というのは実は話が逆で、ここ数年パブリックアートやアーティスト・イン・レジデンスについて調査したり、いくつかのアートプロジェクトを取材しているうちに、どうしても美術館や画廊の起源について考えざるをえなくなった、というのが正しい。だから思いっきり古い話から始めますが、それらはいずれも現在に還ってくる話だと考えておつきあいください。

1.美術館について
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(1)ミュージアムの起源

ミューズの館

いうまでもなく「美術館」とは「museum of art」、または「art museum」の訳語である。「ミュージアム」といえば「博物館」全般を指すので、直訳すれば「美術の博物館」となろう。その日本語訳についてはいずれ検討することにして、まず問題にしたいのは「ミュージアム」の語源である。「ミュージアム」は、ギリシア・ローマ神話に登場する美の女神「ミューズ(ギリシャ語ではムーサイ)の館」を意味する。ミューズは、神々の世界を支配するユピテル(ゼウス)と、記憶の神ムネモシュネーのあいだに生まれた9人の女神の総称であり、それぞれ異なる学問・芸術を司っている。彼女たちの名前と、それぞれの学芸ジャンルを列挙すると、カリオペ(叙事詩)、クリオ(歴史)、エウテルペ(器楽)、タリア(喜劇)、メルポメネ(悲劇)、テルプシコレ(舞踏)、エラト(恋愛詩)、ポリュヒュムニア(賛歌)、ウラニア(天文)となる。
 これを見てまず気づくのは、これらのジャンルがいずれも時とともに推移していくものであり、言葉や身体で演じられ、あとにかたちを残さない時間芸術であるということだ。いまでいうパフォーミング・アーツである。いや、叙事詩は記述されるものではないか、歴史や天文は時間芸術ではないのではないか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかし古代においては、叙事詩も歴史も音楽的旋律に乗せて朗唱されるものだったし、天文は音楽的調和に満ちた天体の運動、すなわち「天の音楽」を聞くものとされていた。それゆえ、これらの学芸はギリシャ語で「ムシケー」と呼ばれ、それがいまの「ミュージック」の語源になったわけである。彼女たちの母ムネモシュネーが記憶の神であることも偶然ではない。
 ここからもうひとつの疑問がわいてくる。それは、ここには絵画、彫刻、建築といった空間芸術(美術)がひとつも含まれてないことである。つまりミューズは、描(書)いたり彫ったりして物質的に残される芸術にではなく、実際に上演したり演奏することによって生命を獲得し、その場かぎりで消えていく芸術にこそ宿るものだった。ミューズがミュージアムの語源であるにもかかわらず、これは奇妙なことではないか。

テクネとアート

 なぜミューズは美術を相手にしなかったのか? それは、古代ギリシアにおいて美術の地位が低かったからにほかならない。よく知られるように、もともと「アート」の語源はラテン語の「アルス」にあり、これはギリシア語の「テクネ」を古代ローマ人が翻訳したものだ。「テクネ」は現在のテクニックやテクノロジーにも使われているように、技術とか手仕事といった意味。つまり美術のもとの語義は「手仕事」にあるといっていい。したがって、美術は知識や想像力をさほど必要としない小手先芸にすぎず、単に対象を写し取るだけの模倣(ミメシス)の技術(テクネ)と見なされていたのである。
 そのことを端的に物語るのがプラトンである。プラトンは『国家』第10巻で寝椅子を例に引いて美術をおとしめている。すなわち、寝椅子の本性を「イデア」とすると、家具職人はそのイデアを模倣して現実の寝椅子をつくり、画家はその職人のつくった寝椅子を見て絵を描く。画家の描く寝椅子は実際にすわれないばかりか、寝椅子のイデアを模倣する人の模倣をしたことになり、寝椅子の本性から遠ざかること3番目ということになる。だから画家の立場は家具職人よりも低い「いかさま師」か「物真似師」だ、と過小評価するのだ。
 また、美術は素材にしばられ、素材によって形態の可能性が制約されている点で、詩や音楽のようなミューズ的学芸より自由でないと見なされていた。だから美術は自発的な芸術表現とはいえず、奴隷の立場に等しかった職人が依頼者に頼まれ汗水たらしてつくる労働でしかなかった。そんなものにミューズの女神は割り当てられなかったのである。
 これは中世の学問分類においても、自由学芸(アルテス・リベラーレス)と呼ばれるものが、基本的な文法、弁証法、修辞学の三科と、音楽、算術、天文学、幾何学の四科からなっていたことからもうかがえよう。美術が職人的立場を脱し、自由学芸と肩を並べるようになるには、ルネサンスの時代まで待たなければならない。

アレクサンドリアのムセイオン

 古代世界においてミュージアムの源流に位置づけられるのは、紀元前3世紀にアレクサンドリアに建てられた「ムセイオン」である。ただしそれは以下に見るとおり、いまの美術館や博物館との直接的な関連は薄いが、しかし現在においても示唆に富む施設であった。アレクサンドリアは紀元前4世紀、マケドニア王アレクサンドロスの東征によってエジプトのナイル河口に建設されたギリシアの植民都市。アレクサンドロスの死後、その部下たちの権力争いによって広大な帝国が分割され、現在のトルコ西岸のペルガモン、シリアのアンティオキアとともに、地中海を支配する首都としてプトレマイオス朝が開かれた。以後、アレクサンドリアは良港を背景に国際都市として栄え、プトレマイオス2世フィラデルフスの時代にはインドのアショカ王とも大使を交換し、街にはギリシア人やエジプト人のほか、ユダヤ人やインド人の僧侶姿も見られたという。
 プトレマイオス1世ソーテールは、政治・経済だけでなく文化的にも優位に立とうと、この地に一大研究センターを創設する。これが「ムーサイの神殿」、すなわち「ムセイオン」である。幼いころ、アレクサンドロスとともにアリストテレスに師事したソーテールがモデルにしたのは、アテネ郊外にあるプラトンのアカデメイア(アカデミーの語源)と、そのアカデメイアに学んだアリストテレスのリセウム(リセの語源)というふたつの哲学教育機関だった。
 ムセイオンには講義室、食堂、宿舎、天文観測所、博物学コレクション、そして70 万巻ともいわれる蔵書を収めた付属図書館があり、すぐれた学者たちを招いて研究活動に従事させた。集まった学者たちは食住を保証され、納税免除されただけでなく、給与の支払いや外国への留学制度といった恩恵にもあずかったという。こうしてムセイオンはプトレマイオス王家の庇護のもと、当時の最高の頭脳を結集させることで国際的評価を確立していった。そして、その際に重要だったのが図書館の存在である。
 この図書館とムセイオンは運営的には独立した機関だったらしいが、相互に補い合う存在であったことはいうまでもない。その図書館では、あらゆる手段を講じて知られているかぎり世界中の本を集め、学者たちを動員してギリシア語に翻訳させた。もちろん本といっても紙も印刷技術もなく、パピルスに手写した巻物しかなかった時代であるから、こうした貴重な著作に触れることのできた学者たちは、先人たちの積み重ねた思索のうえにみずからの研究を発展させることができたのである。ここで「本」を「美術品」に、「学者」を「芸術家」に置き換えて読むと、この「図書館」がいかにも近代的な「美術館」のように思えてこないだろうか。だとすれば「ムセイオン」は、いまでいう「アーティスト・イン・レジデンス」に当てはまらないだろうか?
 いずれにせよ、ほぼ同じ時代に秦の始皇帝が焚書を行ったことを考えれば、なんという違いかと思わざるをえないが、しかし実のところ、図書館建設も焚書も世界支配の手段として裏腹の関係にあったともいえるのだ。こうして数世紀のあいだアレクサンドリアは、ムセイオンと図書館の存在によって、学術研究と国際交流の拠点として古代世界に君臨していくのである。

ムセイオンの終焉

紀元前48年、プトレマイオス13世とその姉であり妻でもあるクレオパトラが内紛を起こし、クレオパトラ側についたローマの武将カエサル(シーザー)と市民のあいだでアレクサンドリア戦役が勃発。このとき、カエサルの放った火によって図書館は焼失したとされる。
 だが、イタリアの文献学者ルチャーノ・カンフォラによれば、焼失したのは港近くの倉庫に保管してあった本だけで、図書館そのものは無事だったという。いや、そもそも図書館そのものが最初から存在しなかったとまでいうのだ。カンフォラは古代の文献を徹底的に調べたうえで、アレクサンドリアの図書館とは独立した建物ではなく、ムセイオンや神殿の部屋に備わった書架のことだと結論づけたのだ。ここでもういちど「本」を「美術品」に置き換えてみれば、この「図書館」はいわゆる「美術館」とは違って、研究所に飾られた「コレクション」のようなものであったと想像できよう。
 その後、アレクサンドリアの陥落により、ムセイオンと図書館はプトレマイオス王家からローマ皇帝の庇護に移ったものの、215年にカラカラ帝がムセイオンへの援助を停止し、外国人学者を追放。272年には、ゼノビアとアウレリアヌス帝との戦いによってムセイオンのあった地域は荒廃する。そして391年、キリスト教のローマ国教化にともない、テシオドス帝が異教神殿を破壊。ムセイオンも研究機関である以前にミューズを祀る神殿であったため、破壊から免れなかった。
 ヨーロッパの基礎をかたちづくり現代の文明文化の源流になったのは、いうまでもなく古代ギリシアとキリスト教である。このふたつの源流がその後の西洋美術の流れをも決定づけたものだが、その一方のギリシアの文明文化を象徴するムセイオンが、もう一方のキリスト教によって破壊されたのは、歴史の皮肉というほかない。


[参考文献]
オウィディウス『転身物語』(田中秀央・前田敬作訳)人文書院
海老沢敏『ミューズの教え』音楽之友社
ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳)中央公論社
プラトン『国家』(藤沢令夫訳)岩波書店
樺山紘一『西洋学事始』中央公論社
モスタファ・エル・アバディ『古代アレクサンドリア図書館』中央公論社
ルチャーノ・カンフォラ『アレクサンドリア図書館の謎』(竹山博英訳)工作舎

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