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美術の基礎問題 連載第3回
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1.美術館について
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(2)美術館・博物館の成立まで

コレクション

 コレクション、すなわちものを集めるという行為は、なにもヨーロッパ近世に始まったことではない。古代ギリシア・ローマの神殿にはさまざまな奉納物が収められていたし、中世のキリスト教会にも聖遺物がコレクションされていた。日本にだって8世紀に建立された正倉院というりっぱな宝庫がある。いや人間ばかりか、ある種の動物にすら見られる行為、あるいは習性といっていい。だが、コレクションがただものを集めるという以上の特別な意味をもちはじめるのは、ルネサンスの時代からのことである。
 中世までの神殿や教会のコレクションは基本的に奉納物や戦利品、宗教的オブジェや書籍、絵画や彫刻など、その時代や社会の記録・記憶としての意味と目的をもっていた。いいかえればそれは、近代的なコレクションのように個人の趣味によるものではなく、時代や社会という集合的無意識が収集させた匿名的なコレクションといえる。それが15〜16世紀になると、絶大な権力をもった各地の諸侯がそれぞれ力を誇示し合うかのように、強烈な個性を反映させたプライヴェート・コレクションが形成されるようになる。
 彼らは、それまでガラクタと見なされていた古代遺跡の断片や、異国から持ち帰った珍奇な自然物にも価値を認め、コレクション・アイテムに加えていく。たとえば、当時の重要なアイテムのひとつに古代のコインやメダルがあるが、古代のコインは貨幣価値としてはゼロに等しいにもかかわらず、その額面をはるかに上回る値で取り引きされるようになった。興味のない者にはクズ同然のものでも、熱狂的なコレクターにとっては垂涎の的になるのである。つまり、これらのコレクションは有用性によってでなく、希少性によって価値を与えられ、それを所有することがステータスシンボルになっていくのだ。このことは、直接的な使用価値を持たない絵画や彫刻などの美術品が、この時代から重要なコレクション・アイテムの筆頭にあげられるようになるのと同じで、コレクション自体の自己目的化を意味していた。
 このような希少性や唯一性を価値基準とするミラビリア(珍品奇物)のコレクションが、各地で覇を競う王侯貴族のあいだに広まり、イタリアでは「ストゥディオーロ」(書斎)、ドイツでは「ヴンダーカマー」(驚異の部屋)や「クンストカマー」(芸術の部屋)、フランスでは「エチュード」(書斎)、イギリスでは「キャビネット」(陳列棚)と呼ばれる私設ギャラリーが宮廷内に築かれていく。彼らは、こうした秘蔵のコレクションを政治的取引に利用することもあったし、逆に、自分ひとりの楽しみのために収集にのめりこみ、その国の政治や経済を犠牲にする例もあった。実際、これらのコレクションを見られるのは、友好関係にある王侯貴族か、せいぜい名のある学者や芸術家に限られていた。

こうした王侯君主のコレクションのなかで名高いのは、イタリア・ルネサンス期のフィレンツェに君臨したメディチ家と、アルプス以北の広大な地を支配下に置いたハプスブルク家だろう。メディチ家では、クアトロチェント(15世紀)のフィレンツェにルネサンス文化を開花させたコジモ・イル・ヴェッキオ、ピエロ・イル・ゴットーゾ、ロレンツォ・イル・マニフィコの3代が知られている。だが、彼らは美術コレクションを残しはしたものの、どちらかといえば同時代の芸術家に建築や壁画を依頼するなど、現在の「メセナ」に近いような公的性格の強いパトロネージ活動に熱心だった。ドナテッロ、ボッティチェリ、レオナルド、ミケランジェロらはいずれも、なんらかのかたちで彼らの庇護を受けた芸術家である。それに対し、個人的な趣味の世界に耽溺し、それゆえきわめて興味深いコレクションを形成したのが、16世紀にコジモ1世(コジモ・イル・ヴェッキオとは別人)のあとを受けて、トスカーナ大公の座に着いたフランチェスコ1世であった。
 内向的な性格のフランチェスコは政治家としては無能だったが、科学や美術を偏愛し、パラッツォ・ヴェッキオ内の実験室や工房にこもって、化学実験や錬金術の研究に没頭したという。1570年には『芸術家列伝』で名高い画家のヴァザーリに命じて、宮廷の一室に「ストゥディオーロ」を設け、珍しい動植物や鉱物などの自然界のオブジェから、美術工芸品、時計、錠前といった科学的オブジェにいたるまで集められた。それらは、いかに種々雑多なガラクタの寄せ集めに映ろうとも、宇宙の四大元素を軸とする階層構造にしたがって分類してあり、室内に飾られた絵画にはコレクションのコンセプトが比喩的に表現されていたという。その後、このストゥディオーロとメディチ家代々のコレクションはウフィツィ宮殿の最上階に移され、現在のウフィツィ美術館の基礎をなすことになる。
 
 このフィレンツェの「ストゥディオーロ」と同時代に、ブレンナー峠を越えたティロルのアンブラス城では、ハプスブルク家のフェルディナント2世が「ヴンダーカマー」を築いていた。このヴンダーカマーには在庫目録がつくられ、しかも奇跡的にもコレクションの多くが現存しているので、比較的あとをたどりやすい。そのコレクションを大きく分類すれば、フランチェスコのそれと同様、人工の産物と自然の産物に分けられる。人工物には絵画、彫刻といった美術品をはじめ、時計や羅針盤、自動人形などの機械類、コインやメダル、書物、楽器、置物、武具や拷問具までそろい、自然物のほうはまず鉱物界、植物界、動物界に分けられ、宝石や貴石、サンゴ、貝殻、象牙、一角獣の角(実はイルカ類のイッカクの牙)にいたるまで、とにかく珍しいものならなんでもかんでも集められていた。
 このアンブラス城のコレクションはフェルディナント2世の死後、甥のボヘミア王ルドルフ2世に受け継がれたが、プラハのフラジン城に設けたルドルフのヴンダーカマーは、ハプスブルク家特有のメランコリーの気質に錬金術や占星術への関心が加わって、いっそう奇妙なものであふれかえり、混沌としていたという。もっとも、アタナシウス・キルヒャーの愛弟子の博物学者ガスパル・ショットにいわせれば、「奇異なるものほど自然の想像力の巧みさを反映している」ということになるのだが。
 その考えはオブジェだけでなく、人間にも適用された。アンブラス城にはいまでも高さ235センチの木彫の人体彫刻があるが、これは宮廷に仕えていたジョヴァンニ・ボナという巨人の等身大の人形である。このボナは、やはり宮廷に仕えるトーメルレという名の矮人と大の仲よしだったという。こうした巨人や矮人は道化とともに、王家の遊び相手として宮廷で養う習慣があり、彼らの肖像画も少なからず残されている。スペインの宮廷画家ベラスケスなどは、彼らの肖像を王族のそれよりむしろいきいきと描いているくらいだ。いまでは信じられないことだが、ガスパル・ショットのいうように、姿かたちが奇妙であればあるほど珍重され、各王室から引っぱりだこの奇形もいたという。彼らはいわば生きたコレクションだったのである。
 彼らとは役割こそ違え、宮廷画家もまた、退屈な宮廷生活に変化を与える生きたコレクションだったといっていい。ハプスブルク家の宮廷画家として有名なのは、オーストリア大公および神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世下のデューラー、スペイン王および神聖ローマ皇帝カール5世(カルロス1世)のティツィアーノ、ハンガリー・ボヘミア王および神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のアルチンボルト、ネーデルラント総督アルブレヒト大公とイサベラ妃のルーベンス、スペイン王フェリペ2世のベラスケスあたりだ。彼ら宮廷画家の役割は、王族の肖像をはじめとする絵画制作にとどまらず、王室の儀式や典礼の演出、衣装のデザイン、コレクションの収集・管理、そしてルーベンスのように、政治への助言や外交活動まで担わされることもあったという。
 
 さて、メディチ家のコレクションもハプスブルク家のコレクションも、代々伝わってきたものに、贈呈されたり没収したものを加えて膨れ上がっていった。それらは一見雑然としているものの、コレクション総体としては宇宙の調和的秩序を表している。フランチェスコ1世とフェルディナント2世は姉妹を通じて義兄弟であり、アルプスの南北を超えてコレクションのコンセプトは呼応し合っていたのだ。これが16世紀マニエリスムのコレクション精神というものだった。
 そして、メディチ家のコレクションがフィレンツェのウフィツィ美術館の基礎となったように、ハプスブルク家のコレクションもやがて、ウィーン美術史美術館やマドリードのプラド美術館に受け継がれていくのである。


[参考文献]
クシシトフ・ポミアン『コレクション』吉田城、吉田典子訳 平凡社
ジョン・エルスナー、ロジャー・カーディナル編『蒐集』高山宏他訳 研究社
森田義之『メディチ家』講談社
エリーザベト・シャイヒャー『驚異の部屋』松井隆夫、松下ゆう子訳 平凡社
種村季弘他『バロックの愉しみ』筑摩書房
ヒュー・トレヴァー・ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』横山徳爾訳 朝日新聞社

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