(2)美術館・博物館の成立まで
一般公開の原則
日本で「美術館」「博物館」というと「館」がつくせいか、どうも建物のことだと思い込んでいる人が多いようだ。だが、16世紀にパオロ・ジョヴィオが初めて「ミュージアム」という言葉を使ったとき、その語は「コレクション」とほぼ同義だったし、いまでもミュージアムといえば、コレクションを中心にした活動(ソフトウェア)から建物(ハードウェア)まで含めた総体を指し、決して建物だけを意味するものではない。
この違いはなんだろう? たしかに西洋に比べて日本の美術館や博物館は、コレクションは貧弱なのに建築にだけはカネをかけ意匠を凝らしているところが多いため、まず建物のことを思い浮かべてしまうのかもしれない。だがそれは結果論であって、もともと日本ではミュージアムというものを建物、つまり「ハコ」としてしか認識してこなかったのではないか。だから美術館や博物館を建てるとき、極端にいえばハコさえつくればイッチョアガリで、その後のことはほとんどなにも考えなかったのである。つい数年前までの美術館建設ラッシュは、このような短絡した「ハコモノ主義」に基づくものであった。このことに関してはのちに詳しく述べることにしたい。
さしあたっていまここで問題にしたいのは、ミュージアムとコレクションがほぼ同義であったという事実である。周知のように、ヨーロッパにおける大美術館のもとをたどれば、そのほとんどが15-18世紀の絶対君主をはじめとする権力者のコレクションにいきつく。たとえば、ローマのヴァティカン美術館は歴代教皇のコレクションを基礎としているし、フィレンツェのウフィツィ美術館はメディチ家のコレクションが核になっている。また、ウィーンの美術史美術館やマドリッドのプラド美術館は、オーストリアとスペインを支配下に置いたハプスブルク家のコレクションを中心に成り立ち、パリのルーヴル美術館はブルボン王朝のコレクションに端を発している、といったように。つまり、ミュージアムとはまずコレクションがあって、そこからすべては始まったということである。
しかし気をつけなければならないのは、こうした王家や教皇のコレクションがそのまますんなりとミュージアムに移行したわけではないということだ。コレクションはミュージアムの必要条件ではあっても、十分条件ではない。前章でも述べたとおり、こうした権力者たちのコレクションは、個人の趣味や世界観の表明としてかたちづくられたプライヴェート・コレクションであり、それが現在でいうミュージアムになるためにはもう一歩、だがきわめて高いハードルを超えなければならなかった。それが「一般公開」の原則である。
この一般公開の原則をもっとも端的に、そして劇的に実現させた例が、ほかならぬルーヴル美術館であった。以下に少し、この世界最大の美術館の歴史について振り返ってみたい。
ルーヴルの歴史は12世紀後半、カペー王朝フィリップ2世(オーギュスト)の時代までさかのぼる。フィリップ2世はセーヌ河畔のルーヴルと呼ばれた地区に城塞を建設。場所は現在の美術館の東側、クール・カレ(方形の中庭)に位置し、大きさはクール・カレの4分の1程度だった。牢獄にも使われたというその城塞跡は、ミッテラン政権による「大ルーヴル計画」の工事で掘り起こされ、シュリー翼の地下で見ることができる。14世紀にはシャルル5世がこれを王宮に改造。このころのルーヴル宮の様子は、15世紀のランブール兄弟による「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれている。
その後、フランス・ルネサンスの幕開けを告げるフランソワ1世や、メディチ家から嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシスらによって増改築され、17世紀初頭、ブルボン王朝の祖アンリ4世がセーヌ川沿いに長大なグランドギャラリーを建設、ほぼ現在の輪郭がかたちづくられることになった。アンリ4世はまた、グランドギャラリー内にアトリエや住居を設け、芸術家や職人を無料で住まわせて制作させている。なんと、ルーヴルが「アーティスト・イン・レジデンス」を行っていた時代もあるのだ。さらに彼は、美術品の展示室までつくってコレクションを一般公開しようとしたが、これは実現しなかった。しかし、この時代にルーヴルが王宮であるだけでなく、「美術の館」をめざしたことは特筆すべきだろう。
さて、築城はルイ14世の時代まで断続的に行われたが、この太陽王はヴェルサイユ宮に居を移したため、工事は中断。以後、18世紀末に革命が勃発するまで1世紀のあいだ、ルーヴル宮の一画にはアカデミー・フランセーズの本部が置かれ、サロン・カレ(方形の間)では王立絵画彫刻アカデミーの展覧会が開かれたりしていた。だが、そのほかの場所は芸術家の巣窟となったばかりか、民衆が勝手に小屋を建てて占拠。あちこちに煙突が立てられ、人糞が垂れ流しにされ、王宮は荒廃していく。
18世紀といえば、ディドロ、ダランベールらによる啓蒙思想が高まりを見せた時代でもあった。たとえば、ディドロは『百科全書』のなかでルーヴル宮を美術館として開放し、王室コレクションの公開を提案しているのだ。また、こうした啓蒙主義に文字どおり啓蒙された民衆は、市民としての権利意識にめざめ始め、富の不均衡に不満をつのらせた末、ついに1789年、革命が勃発。王室コレクションをはじめ亡命貴族や教会所有の美術品が没収され、国民の財産として国有化されていく。そしてギロチンがフル回転した1793年、とうとうルーヴルは国立美術館として一般公開されることになった。これが現在のルーヴル美術館の前身である。
その直後に登場したナポレオンは、ヨーロッパ各地に遠征して連戦連勝し、ルーヴルに戦利品をもたらす。このため1803年にはナポレオン美術館と改称。同時にナポレオンは、アンリ4世以来200年間続いた「アーティスト・イン・レジデンス」を撤廃した。ナポレオンの失脚後は、掠奪した美術品の大半が各国に返還されコレクションは激減。しかしその反動として19世紀を通じてコレクションは増加の一途をたどり、また19世紀なかばのナポレオン3世によって美術館は増築され、ほぼ現在の姿に落ち着いた。その後、パリ・コミューンや20世紀の2度にわたる大戦がルーヴルを危機に陥れたものの、美術館に大変革を加えようとする者はミッテラン前大統領の登場まで現れなかった。
ミッテランは1981年の大統領当選後、フランスの歴代大統領の例にならっていくつかの大規模な公共事業に乗り出す。その目玉が「大ルーヴル計画」だった。まず、三方を建物に囲まれたナポレオン広場の地下をエントランスとして整備し、革命200周年の1989年にガラスのピラミッドを完成。また、建物全体の3分の1近くを占めていた北側の大蔵省を立ち退かせ、美術館開館200周年の1993年にリシュリュー翼をオープンさせた。これによって展示スペースは大幅に拡張され、レストランやショップなどの付帯施設も充実し、ようやく近代的な美術館として生まれ変わることになった。
こうして800年にもおよぶルーヴルの歩みを振り返ってみたなかで、もっともエポックメーキングなできごとはいうまでもなく、革命時に美術館として一般公開されたことである。もちろん、歴代王朝の築城やコレクションの拡充がなければ美術館は成り立たなかったに違いないが、しかしそれが一般公開されないかぎり、コレクションの価値もまた万人に認められなかったはずである。繰り返せば、ミュージアムがミュージアムであるためには、まず第一にコレクションがあること、第二にそれが公開されること、これに尽きる。その「一般公開」の原則を勝ち取るために、フランス人は多くの血を流さなければならなかったのである。それに比べれば建物などは極端な話、雨露さえしのげればどこでもかまわないのだ。
[参考文献]
Nikolaus Pevsner‘A HISTORY OF BUILDING TYPES’Thames and Hudson
小島英煕『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリー
西野嘉章『博物館学――フランスの文化と戦略』東京大学出版会
岩渕潤子『美術館の誕生』中公新書
井上幸治「王宮から博物館へ」『世界の博物館10 ルーブル博物館』 |