(2)美術館・博物館の成立まで
一般公開の原則2
パリのルーヴル美術館、フィレンツェのウフィツィ美術館、ローマのヴァティカン美術館。これらの大美術館はいずれも、王侯君主や教皇といった絶対的な権力をもった人々のコレクションをもとに、彼らの宮殿や庁舎をそのまま美術館に再利用して成り立ったものだ。したがって核となるコレクションや建物には400〜500年の歴史がある。しかし、それらが美術館になったのは、いいかえれば、それらのコレクションが建物ごと一般公開されるようになったのは、18世紀から19世紀にかけてのこと。つまり、コレクションや建物が形成され始めてから美術館になるまでには、2〜3世紀のタイムラグがあった。このタイムラグこそ近世から近代への移行を示す証にほかならない。これに対して、初めから一般公開を目的に創設されたミュージアムがある。その代表が、ルーヴルと並んで古典美術の殿堂として名高いロンドンの大英博物館である。1753年に設立されたというから、ルーヴルの公開より40年ほど先駆けていたことになる。
なぜイギリスでは、フランスのような市民革命を経ずにコレクションの一般公開が可能になったのか。たしかにフランス革命ほどのドラスティックな社会変化はなかったものの、イギリスでも17世紀にピューリタン革命と名誉革命が起こっている。それによって、王政を保持しながらもいち早く議会制民主主義の道を歩み始めていたからである。もうひとつは、大英博物館が王侯貴族や教会のコレクションを引き継ぐのではなく、民間人のコレクションをもとに成立したからである。したがって建物も宮殿などではなく、当初は売りに出されていた邸宅に間借りしたものだった。こうして大英博物館は、一般公開を前提に法人組織として設立された世界初のミュージアムとなったのであり、これこそほかの大美術館の成り立ちと一線を画す点にほかならない。ただし、「初めにコレクションありき」という点では共通していることを、いまいちど強調しておきたい。
大英博物館は、当代の著名な医師ハンス・スローン卿(1660-1753)の収集した個人コレクションに端を発する。スローン卿はニュートンのあとを継いで王立アカデミーの会長を務め、王立医科大学の学長も兼ねる碩学であった。そのため交友関係も広く、アン王女をはじめ、ベンジャミン・フランクリン、サミュエル・ピープス、ヴォルテール、ハイドンらと親交を結んでいた。また彼は、ジャマイカ総督アルベマール公の侍医として同地に赴任した際、カリブ海の珍しい動植物の標本や民芸品を持ち帰っている。
余談だが、彼はイギリスにココアを飲む習慣をはやらせた人物としても知られている。同じロンドンのテイトギャラリーの礎を築いたヘンリー・テイトは砂糖貿易で財をなし、ケルンのルドヴィヒ美術館の創始者ルドヴィヒはチョコレート会社の経営者だったはず。どうやら美術館や博物館の創始者には甘党が多かったようだ。
さて、ハンス・スローンは、その幅広い交友と並外れた博物学的関心を生かして、90年を越す生涯に8万点もの厖大なコレクションを築くことになった。その内訳は、3500冊の手稿本を含む4万冊余りの書籍、32000枚の貨幣、5843種の貝類、その他、鉱石や植物の標本、化石、ワニの剥製、工芸品、中国絵画、デューラーの素描など、自然物と人工物を問わず、また古今東西の分け隔てなく、ありとあらゆるものにおよんでいた。
スローンは生前からこれらのコレクションを知人や学者たちに公開し、「ロンドンの大ガラクタ屋の親父」と皮肉られることもあったが、量こそ破格とはいえ、こうしたコレクション・アイテムの多様性は当時としては珍しいものではなかった。前に述べた「ストゥディオーロ」や「ヴンダーカマー」がそうであったように、現在から見ればいかに脈絡のないガラクタの寄せ集めに映ろうとも、それらは世界を全体的に捉えようとする意図に基づいて、いわば宇宙の縮図(ミクロコスモス)として集められていたのである。
スローン卿は92歳で没する前に、全コレクションを一括保管し、一般人の利用に供するという条件で、国に譲渡したいと遺言する。議会では初め、「そんな役立たずのクズに公金を費やすことはできない」として提案を葬り去ろうとしたが、それを救ったのは下院議長のアーサー・オンズロウであった。彼は宝くじを発行して財源を確保し、スローン・コレクションを核にコットン家とハーリー家の蔵書を加え、1753年に議会で「大英博物館法」を成立させる。スローンの死後5ヶ月余りのことである。
次は場所を決めなければならない。当初、バッキンガム邸(現在のバッキンガム宮殿)の名もあがったものの、価格が折り合わず断念。結局、17世紀後半にモンタギュー公爵の邸宅として建てられ、スローン卿も一時住んでいたというブルームズベリー地区のモンタギューハウスに決まった。現在の大英博物館の建つ地である。こうして1759年、彼(ら)のコレクションは大英博物館として一般公開されることになった。
大英博物館の基本方針は、コレクションは永久に保存され、学問のための研究機関として、だれでも自由にアクセスできること。すなわち、何人にも開かれた「一般公開」ということである。この「一般公開」を保証するのが「入場無料」の原則にほかならず、これは財政難であろうがなかろうがいまだに貫かれている。とはいえ、開館当時はまだ「珍奇な見世物小屋」といった偏見があり、また、前日に申し込み許可を受けなければ入れなかったため、1日の来館者は30人程度にすぎなかったという。ちなみに、いまでこそ大英博物館といえば古典美術の殿堂だが、発足当時は「刊本部」「写本手稿部」「自然・人工作品部」の3部門で、図書の占める割合が大きかった。これはミュージアムの原型ともいうべき「ムセイオン」を彷彿とさせるではないか。
「自然・人工作品部」の、とりわけ美術コレクションが増えるのは19世紀以降のこと。18世紀後半にキャプテン・クックが南太平洋から民族資料をもたらしたのをはじめ、大英帝国の躍進と歩調を合わせるかのように増大の一途をたどる。19世紀に入ってからは、1802年にナポレオン軍がナイル河口で発見したロゼッタストーンをイギリス軍が入手し、1805年にはチャールズ・タウンリーがイタリアの古典彫刻コレクションを遺贈。1816年には、エルギン伯トーマス・ブルースがアテネのパルテノン神殿から持ち帰った大理石装飾を購入している(この通称「エルギン・マーブルズ」は、メリナ・メルクーリがギリシアの文化大臣に就いてから返還運動が起こっている)。コレクションが増えれば来館者も増える。1807年には入館者が13407人だったのが、4年後には27479人と倍増。1830年代にはロンドンの人口が150万人に達したのだから、もはや老朽化したモンタギューハウスではとてもまかないきれなくなった。
そのため1820年、ロバート・スマークの設計で全面改築を決定。しかし政府は資金を出し渋ったため小刻みに仕上げていかなければならず、ようやく完成したのは1848年のこと。建築自体はイオニア式の円柱の並ぶ堂々としたギリシャ様式で、いかにも「美の神殿」といった趣だが、およそ20 年がかりで建設したためすでに時代遅れのスタイルとなっていた。それ以上に問題だったのは、コレクションの増加が建設速度を上回り、完成時にはもはや手狭になっていたことである。そこで、混在していたコレクションを人工物と自然物に分け、自然科学関係だけを分離独立させることになった。こうして1881年、自然史博物館がサウスケンジントン地区に完成する。ただし、大英博物館でいちばん人気があったのはキリンやサイの剥製など自然科学関係だったので、それが離れた当初は入館者が極端に減ったという。
「収集活動を止めてしまった博物館は死んだも同然」と元館長デイヴィッド・M・ウィルソンがいうように、20世紀に入ってからも博物館の宿命としてコレクションは増えこそすれ減ることはなく、断続的に増築を繰り返してきた。近年では、1973年に図書館が制度的に分離され、円形閲覧室だった中庭の空間は改装工事中である。その費用は約1億ポンド。そのうち4600万ポンドは設立時と同じく宝くじの収益でまかなわれるが、残りは大英博物館が独自に集めなければならない。こうして250年のあいだ、資金集めやスペース不足と戦いながら、入場無料という一般公開の大原則を貫いてきた大英博物館は、世界のミュージアムのお手本といえるだろう。
[参考文献]
Nikolaus Pevsner‘A HISTORY OF BUILDING TYPES’Thames and Hudson
Marjorie Caygill‘The Story of the BRITISH MUSEUM’British Museum Publications Ltd
藤野幸雄『大英博物館』岩波新書
デイヴィッド・M・ウィルソン『大英博物館の舞台裏』中尾太郎訳 平凡社
松居竜五、小山騰、牧田健史『達人たちの大英博物館』講談社選書メチエ
菅伸子「21世紀の文化都市を目指し大変貌を遂げつつあるロンドンの文化施設」『地域創造』1999 年 Autumn |