(2)美術館・博物館の成立まで
博覧会からミュージアムへ
ルネサンス期に発展したさまざまな視覚メディアは、連鎖反応しながら人間の目を開かせ、世界を広げていく起爆剤となった。たとえば、航海用羅針盤の発明や地図(海図)の発達は15世紀後半に始まる大航海時代をもたらし、新大陸の発見につながる。その新大陸から持ち込まれた珍しい動植物や異民族の風習が、17〜18世紀の博物学や博物誌のブームを巻き起こし、博物学コレクションを増やしていく。それが18世紀後半から19世紀にかけて博物館・美術館に結実していったのは前述のとおりだ。だからミュージアムとはなにより、この時代に優位に立った視覚文化の産物であり、世界を一望のもとに見渡してみたいという人間の欲望に奉仕する装置だったといえる。
こうした「見ることの欲望」に応える装置として、19世紀にミュージアム以上に人々の人気を集めたのがパノラマやディオラマなどの見世物小屋であり、そして博物学的展覧会、すなわち博覧会であった。とりわけ博覧会とミュージアムのつながりには浅からぬものがあった。
では、博覧会とはなにか、それはいつごろから始まったのか。これは博覧会の定義に関わってくる問題である。広辞苑によれば、博覧会とは「種々の産物を蒐集展示して公衆の観覧及び購買に供し、産業・文化の振興を期するために開催される会」とある。したがって、博物学的な陳列であっても「ヴンダーカマー」はプライヴェート・コレクションだから含まれず、また、いかがわしい珍品奇物の見世物小屋やパノラマ、ディオラマなどは「産業・文化の振興」ではないから博覧会とはいえない。しかし、たしかに博覧会には「産業・文化の振興」という目的あるいは名目はあったにせよ、それを実現させる原動力はおそらく、ヴンダーカマーや見世物小屋と同じ「見ることの欲望」ではなかっただろうか。そうした「見ることの欲望」を国家レベルにまで引き上げ、「産業・文化の振興」という目的と結びついたとき、博覧会が成立したのである。
その最初の例は、革命後の1797年にパリで開かれた工業製品の展示会といわれている。フランスではその直前にルーヴル宮が国立美術館として公開されているので、美術の展示を産業の分野に拡張したともいえよう。こうした産業博覧会はパリだけでなく、19世紀前半をとおしてヨーロッパ各地へと広がっていく。
だが、それらは国内向けの展示であり「万国博覧会」ではなかった。それを一気に国際規模に拡大したのが、1851年のロンドン万博である。これはロンドンの公文書館の館長補佐だったヘンリー・コールが発案し、ヴィクトリア女王の夫のアルバート公を総裁に王立委員会が組織され、ハイドパークに建てた鉄骨とガラスによる仮設建築、クリスタルパレス(水晶宮)で開催されたもの。参加したのは、ヨーロッパと南北アメリカの主要国34カ国。出展物は「原材料」「機械」「工業製品」「彫刻・造形美術」の4部門に分かれていたが、実際には時計だの織物だの四輪馬車だの、はては乳房膨張装置とか放血装置とか、わけのわからないものまで渾然一体となっていたという。しかし、この混沌ぶりがかえって人々の「見ることの欲望」を刺激したのか、約5ヶ月の会期で入場者は延べ600万人を超えるほどの盛況だった。これは当時のロンドンの人口の3倍、イギリスの人口の3分の1に当たるという。
この世界初の万博を発案し、みずからプロデュースしたヘンリー・コールは、主要な出展物を恒久展示するため、収益金をもとに翌1852年に産業博物館を設立する。これが博覧会とミュージアムの最初のつながりである。1857年には現在地のサウスケンジントンに移転し、そのままサウスケンジントン博物館と改称。1899年にはヴィクトリア女王とアルバート公の名を冠し、世界最大の工芸美術館として知られるヴィクトリア&アルバート美術館(以下V&A)と改められた。
クロムウェル通りに面して建つV&Aの巨大なファサードは、隣接する自然史博物館のファサードともども壮観そのもの(この一画には科学博物館や地質学博物館もあり、それらとV&Aを隔てる道はエキシビジョン・ロードと呼ばれている)。その入口近くの展示室に入って、まず驚かされるは、イタリアにあるはずのミケランジェロの彫刻「ダヴィデ」や、ラファエロの壁画「アテネの学堂」が並んでいることだ。もちろんこれは模刻と模写だが、そんなものをいちばん目立つ部屋に展示しているのは、どこか19世紀的な見世物小屋の名残を感じさせないだろうか。このように、工芸美術館といってもコレクションは非常に多彩で、家具調度、染織、ファッション、陶磁器、ガラス、楽器、仏像、日本の鎧甲、ペルシャ絨毯、素描、写真……もちろん模写や模刻でない絵画・彫刻もある。古今東西、これほど多彩なコレクションを並べた美術館も少ないだろう。
V&Aの理念は、当然ながら万国博の理念を受け継いだものである。エリザベス・エスティーヴ・コール館長によれば、まず、イギリスの産業製品におけるデザインの水準を向上させること、芸術作品を公開して産業労働者に役立てること、そして、国民の趣味教育の機関として利用されることである。すなわち、芸術は産業の発展に役立つと考えられているのだ。このことは、「絵画が工芸やデザインの作品と並存していることは、芸術とデザインが密接な関係にあると考えられたことを示している。美術はデザイナーや製造業者にとって霊感の源泉であるべきだった」という彼女の言葉にも表れている。
さて、もういちど万国博に戻ろう。ロンドン万博の成功にならって、19世紀後半には各国とも万 国博覧会の開催に乗り出す。以下に、19世紀後半のおもな万国博を列挙してみよう。
開催年 |
開催地 |
入場者数(万人) |
1851 |
ロンドン |
600 |
1855 |
パリ |
520 |
1862 |
ロンドン |
620 |
1867 |
パリ |
680 |
1873 |
ウィーン |
730 |
1876 |
フィラデルフィア |
990 |
1878 |
パリ |
1600 |
1889 |
パリ |
3240 |
1893 |
シカゴa |
2750 |
1900 |
パリ |
4810 |
(吉見俊哉『博覧会の政治学』より) |
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50年間に10回、とくにパリはその半分を占め、ほぼ10年に1回の割合で開いている。入場者も1878年、1889年、1900年と回を追うごとに急増し、ロンドンで始まった万博はすっかりパリにお株を奪われたかたちになった。なかでも、革命100周年の1889年のパリ万博は、エッフェル塔が建てられたことでよく知られているが、ミュージアムに関連するのは1900年のほうだ。この年にパビリオンとして建てられたグランパレとプティパレは、現在は展覧会場に使われているし、このとき新設されたオルセー駅も、1986年にオルセー美術館として生まれ変わっているからである。
このように、万博とミュージアムには深いつながりがあることがわかるだろう。だがそれは、V&Aやオルセー美術館のように単にコレクションや建物で連続しているというだけではない(日本にも大阪万博のときに建てられた万博美術館が国立国際美術館になった例がある。ただし西欧より100年遅れているが)。むしろ万博とミュージアムは、前述のとおり、この時代の「見ることの欲望」に奉仕する装置として通底していたのである。そして、まさにこの時代に開国した日本政府は、これら西欧の万博をお手本としてミュージアム建設の第1歩を踏み出すことになる。
[参考文献]
吉見俊哉『博覧会の政治学』中公新書
エリザベス・エスティーヴ・コール『ヴィクトリア&アルバート美術館』みすず書房 |