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連載
美術の基礎問題 連載第7回
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1.美術館について
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(3)日本の美術館・博物館

東京国立博物館

 近代以前の西洋では、さまざまな奉納物を収納していた神殿や教会が博物館的な役割を果たしていたように、日本の神社仏閣にも仏像や仏画、絵馬のような奉納物を保存しておく付属施設があった。もっとも古い例が、奈良時代に建てられた東大寺の正倉院だろう。しかし、それらをミュージアムと呼ぶわけにはいかない。なぜならそれらはコレクションを保存する施設ではあっても、それを調査研究し、分類整理する機関ではないし、なにより一般公開するという目的をもたないからだ(たとえば、高橋由一のコレクションで知られる香川県琴平町の金刀比羅宮博物館のように、のちにミュージアム機能を備えるようになったところはある)。
 では、日本で最初に「博物館」と名乗ったのはどこかといえば、明治5(1872)年に開館した東京国立博物館とされている。「とされている」とためらいがちにいわねばならないのは、開館当初はとうてい「博物館」と呼べるような体のものではなく、むしろ「博覧会」というべきものであったからだ。
 実は、明治初期には「博物館」と「博覧会」に明確な区別はなく、「博物館」は「博覧会」の開かれる場所といった程度の認識だったようだ。それはおそらく、この時代(19世紀後半)に欧米に派遣された日本の使節団が、各地で開かれていた万国博覧会や博物館を同時に見てまわったとき、両者に共通する先進的な時代精神に目をみはり、それぞれの違いには目をつぶったからではないだろうか。
 ならば明治日本ではどんな「博覧会」が開かれ、それがどのような経緯で「博物館」になっていったのか、以下にたどってみよう(当時は新政府の方針も揺れ動き、組織や名称がコロコロ変わったので、少々ややこしいかもしれない)。

 日本で最初に「博物館」および「博覧会」を推し進めた人物は、慶應3 (1867)年に幕府からパリ万国博覧会に派遣され、当地の博物館や植物園を見てまわった田中芳男であった。彼は、大学南校(文部省の前身)物産局に勤めていた明治4(1871)年に、「大学南校博物館」の名で「博覧会」を開くための上申書を提出。しかしなぜか「博覧会」は「物産会」になり、「大学南校博物館」も実現しなかった。ちなみに物産会とは、薬草をはじめとする動植物や鉱物の標本を持ち寄って公開し、知識を広める集まりのことで、江戸時代から各地で行われていた。
 田中芳男はまた、「museum」を「博物館」と訳した最初の人といわれている。それ以前の文久2(1862)年に洋書調所から出された『英和対訳袖珍辞書』には、「museum」を「学術ノ為ニ設ケタル場所。学堂書庫等ヲ云フ」と解説してある。これは「ミュージアム」というより、その語源である「ムセイオン」の内実に近く、「博物館」の訳語は当てられていない。ところが、さらに前の万延元(1860)年にアメリカに派遣された遣米使節団通訳の名村五八郎は、ワシントンの「patent office」について「当所博物館ニ到リ、其掛リ官吏ニ面会諸物一見ス」と記し、「博物館」という語を用いているのだ。「パテントオフィス」とは特許局のことで「ミュージアム」ではないが、どうやらこのパテントオフィスは世界中の歴史・民族資料を展示する博物館の性格も備えていたようだ。
 さて、田中が「博物館」「博覧会」を計画した同じ年、物産局の同僚で渡英経験のある町田久成とともに、古器旧物を保存するための「集古館」の設立を太政官に進言。これは、明治維新の急速な文明開化によって、歴史的遺品を粗末に扱う廃仏毀釈の風潮が高じたことに危機感を覚え、西洋の博物館のように1カ所に保存する必要を感じたからである。「集古館」はいまではほとんど死語と化してしまったが、のちに見るように民間で初の博物館となる大倉集古館(1917年設立)に名を残している。ともあれ、この進言を受けて太政官は古器旧物保存の布告を発し、全国から書画骨董、珍品器物が集められた。いまの文化財保護法のようなものである。
 こうして集められた古器旧物をもとに、明治5年3月10日、湯島聖堂大成殿を会場に文部省博物局(大学南校物産局から改称)による日本初の博覧会が開かれることになった。その会場が「博物館」と呼ばれ、これが現在の東京国立博物館の前身なのである(同館はこの年をもって創立・開館の時としている)。
 このとき出品されたのは、御物をはじめ古美術品、古道具、遺跡出土品、動植物の標本など約620件。なかには福岡県志賀島で発見された金印や、名古屋城の金のシャチホコなど国宝級のものもあり、とりわけ金のシャチホコが人気を呼んで、当初20日間の予定だった会期は延長に延長を重ね、結局4月末日まで一般公開された。閉会後も再開を求める声が強く、毎月31日を除く1と6のつく日のみ公開されることになった(この公開日はちょうど、江戸時代からの武士の休日を引き継いだ官吏の公休日に当たっている)。こうして博覧会は一時的なイベントに終わらず、恒久的な博物館への道を歩み始める。
 このように開国期の日本では、西洋の文明文化の精髄ともいうべき博物館や博覧会が比較的すんなりと受け入れられていった。それは、この時期が欧米でも博物館や博覧会の発展期に当たっていたこと、それらを日本人使節団が熱心に見習ったことに加え、江戸時代から前博覧会的な物産会という下地があったことも大きいだろう。

 この日本初の博覧会はまた、翌年に開催されるウィーン万国博覧会への出品の準備も兼ねていた。日本の万博参加は、1867年のパリ万博に幕府と薩摩藩、佐賀藩が出展したのが最初だが、明治新政府として正式参加するのはこれが初めてのこと。
 ウィーン万博の事務局理事官だった佐野常民は、開国まもない日本の伝統的技芸を海外に紹介し、自国の物産や美術工芸品などの輸出を促進すること、海外から産業技術を学び殖産興業に役立てること、さらに、日本でも博物館をつくり博覧会を開催することを目標に掲げていた。これは前章で述べた、ロンドン万博の落とし子ともいうべきヴィクトリア&アルバート美術館の「芸術は産業の発展に役立つ」との理念を彷彿とさせる。そして、このとき日本館に展示された金のシャチホコをはじめ、陶磁器、七宝、漆器、織物などの伝統工芸が人気を集め、世紀末の西洋におけるジャポニスムのブームに拍車をかけることになった。この成功によって、明治10年代後半から20年代の美術工芸品の輸出額は、総輸出額の約1割を占めたという。日本の美術工芸品は海外の需要を大いに刺激したわけで、当初の目標は達成されたといっていい。
 しかし一方で、こうした風潮を冷ややかに見る者もいた。たとえば『明治事物起原』を著した石井研堂は、第4編「美術部」の冒頭で次のように述べている。

「明治四辛未年五月二十三日、古器物の散逸を惜しみ、祭器古玉以下三十一部目につき、所蔵人名品目等を記載し、官庁に届け出でしめたり。しかれども、こは、澳国(オーストリア)博覧会へ出品の準備とこそ見ゆれ、真に古物愛護の精神などありしとは思はれず。その証は、その後絶えて、古物愛護のことを匂はせることもなく、ただ欧米の皮相文明を輸入するに急にして、日本ものといへば、百事百物ただ打破する一方なりければなり」
 要するに、古器旧物保存はウィーン万博に出品するための方便にすぎず、その後は欧米文明の輸入に倒いてしまったということである。たしかに石井のこの批判は、後ろ向きの古器旧物保存と、未来志向の殖産興業を同じ土俵で推し進めようとした日本政府の矛盾を突くものであり、それはまた、まったく歴史的背景の異なるパーマネントな「博物館」建設と、テンポラリーな「博覧会」開催を同時に実現させることの不可能性をも示唆していないだろうか。
 とはいえ、明治前半期の日本の美術が当時の殖産興業政策にうまく合致し、前述のように重要な輸出産業にまで成長したことは事実である。というより、殖産興業政策に合わせて明治の美術はスタートを切ったというべきかもしれない。
 そもそも「美術」という日本語自体が明治初期の造語にほかならず、まさにこのウィーン万博の出品に際してドイツ語の「Kunstgewerbe(美術工芸)」から訳出されたものだった。つまり、「美術」という概念は「博覧会」「博物館」と同時並行的にもたらされたものであり、これらはいずれも殖産興業政策のたまものだったということだ。このことは、日本初の美術学校が工部美術学校だったことからもうかがえる。工部美術学校とは、殖産興業の中枢官庁である工部省が設けた工部学校(イギリス人の建築家ジョサイア・コンドルを教師に招いた建築学校)の付属で、芸術家よりもむしろ実用的な技術者を養成する機関だったからだ。
 しかし、ここに矛盾があった。すなわち、同じ殖産興業政策の一環であるにもかかわらず、海外に輸出され喜ばれたのは日本の伝統美術であり、博覧会(博物館)に並べられたのは日本の古器旧物であって、工部美術学校でフォンタネージやラグーサらが教えた西洋の近代美術とは正反対を向いていたからである。このように、日本の近代美術は出発点から内側と外側で別の顔を見せる分裂症状を抱えていたのである。これがのちに工部美術学校を廃止に追い込み、かわって国粋主義的な東京美術学校の開校をうながし、西洋画と日本画の対立を引き起こし、ひいては現代美術の「ねじれ」現象を呼び込む遠因となったのではあるまいか。

 その後の博物館の足取りをたどってみよう。ウィーン万博の開かれた明治6 年、博覧会事務局は文部省博物館や書籍館などを合併して内山下町(現在の千代田区内幸町)に移転し、古器旧物、動植物、舶来品など7棟の建物で博覧会を続けた。このころはまだ博物館の固有名はなく、強いていえば「博覧会事務局」という名の博物館だった。明治8年には内務省の所管となって博物局博物館に改編され、明治14年には上野公園に移転。
 これと並行して、初代内務卿の大久保利通は殖産興業政策の一環として、明治10年に上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催する。このとき会場正面に建てられたのが、日本で初めて「美術館」と名づけられた陳列館だった。この80坪ほどの洋風建築を中心に、左右に東本館、西本館、機械館、園芸館などが配されたが、ほかはすべて木造だったのに、美術館だけは博覧会後も残すためレンガづくりだった。明治13年にはコンドルの設計で、この美術館の前に8倍の広さをもつ2階建ての上野博物館が竣工し、翌14年に開かれた第2回内国勧業博の中心的な建物として利用された。この博物館は大正12年の関東大震災で大きなダメージを受け、その跡地に建てられたのが帝冠様式を誇る現在の東京国立博物館本館である。
 先を急ぐまい。明治15年、上野博物館と付属の動物園(現在の上野動物園)は、年末年始と月曜を除いて連日一般公開されることになった。大日本帝国憲法の発布された明治22年には帝国博物館と改称し、同時に帝国奈良博物館、帝国京都博物館も設置された。明治23年の第3回内国勧業博は上野公園で行われたが、第4回は大阪、第5回は京都での開催となり、ここにいたってようやく博物館は殖産興業政策から脱し、独自の道を歩み始める。
 明治33年には東京帝室博物館に改称し、宮内省に移管。関東大震災の翌年、動植物などの自然史関係を東京博物館(現在の国立科学博物館)に譲渡し、帝室博物館は美術と歴史の専門館となるが、昭和13年に本館が復興すると歴史課が事実上廃止され、美術専門の博物館となった。戦後、日本国憲法が施行された昭和22 年、皇室から国に戻って再び文部省の管轄に変わり、国立博物館と改称。昭和27年には東京国立博物館となって現在にいたっている。
 このように、130年近い東京国立博物館の歴史はまさに紆余曲折の連続であり、それはそのまま日本の近代史を反映するものだといっていい。しかし、歴史はまだ終わったわけではない。間近に迫った独立行政法人化によって、この博物館は再び激動の時代を迎えるはずである。


[参考文献]
図録『目でみる120年』1992年、東京国立博物館書
椎名仙卓『明治博物館事始め』思文閣出版
北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社
『博物館学講座2日本と世界の博物館史』雄山閣出版
石井研堂『明治事物起原3』ちくま文芸文庫
佐藤道信『〈日本美術〉誕生』講談社選書メチエ

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