(3)日本の美術館・博物館
東京都美術館
明治期に設立された美術館は、東京、奈良、京都の博物館3館だけである。これらは前回述べたようにもともと博覧会場として出発し、名称も「博物館」になっているが、展示品は古美術や歴史的資料が中心なので、実質的には「美術館」といっていい。しかし、そこにあるのは過去の遺物ばかりで、いま現在の美術は扱われない。では、同時代の美術を扱う美術館はいつ、どのようにして生まれたのだろうか。実は、明治30年代から明治美術会などを中心に近代美術館建設運動は起こっていたのだが、実現するのはずっと先の大正末になってからのことである。
大正11(1922)年、東京府の主催で平和記念東京博覧会が上野公園で開催された。その前年に、美術関係者が東京府や東京市に対し、博覧会場に建設を予定している美術館を仮設のパビリオンではなく、同時代美術を展示する恒久的な美術館にしてほしいと要求。そのとき、たまたま上京していた福岡県の実業家で若松市会議長も務めた佐藤慶太郎は、それを知って賛同し、建設資金100万円を府に寄付する。結局、博覧会の美術館を恒久的な建物として残すには時間的に間に合わなかったものの、東宮殿下(のちの昭和天皇)の成婚記念として、同じ上野公園内に敷地が無償で得られることになり、大正15(1926)年に東洋一の東京府美術館が開館した。ここでもやはり博覧会がきっかけになっていたのだ。
現在の東京都美術館の隣地に建ったレンガづくりの建物は、エントランスに6本の円柱が並ぶ古典様式。1950年代末から読売アンデパンダン展に出していた赤瀬川原平は、「正面にあるゆったりと幅の広い大階段を昇って行くと、パルテノン宮殿のような大エンタシスの並ぶ入口があり、その正面を中に降りると広くて天井の高い吹き抜けの彫刻室。それをぐるりと回廊しながら絵画の展示室があった」と旧館を回顧している。
それにしても、日本初の首都の公立美術館が個人の、しかも遠く離れた地に住む民間人の寄付金によって成り立ったという事実には驚かされるが、問題はその性格づけである。新しい美術館をコレクションの常設展示場にするか、美術団体へ賃貸する貸し会場にするかという選択肢があったのだが、当時の東京府知事・阿部浩は、後者の貸し会場案を選んだのである。こうして記念すべき公立美術館の第1歩は、「帝展」(文部省展覧会すなわち「文展」を前身とし、戦後「日展」となった)、「二科」などの美術団体展によって印されることになった。その際に政治的な圧力があったかどうかは知らないが、関東大震災の直後のことでもあり、少なくとも新たにコレクションをそろえたり企画展を開くより、団体に会場を貸して賃貸料をもらうほうが運営的にはずっと楽であることはたしかだった。
しかし、この選択がのちの公立美術館のあり方にまで影響をおよぼし、コレクションをもたなくてもハコさえつくれば美術館になる、という美術行政の悪しき体質を生んだことは否定できない。「貸し会場」としての美術館は「貸し画廊」と並ぶ日本独自の現象であり、これまた日本にしか見られない「美術団体」と結託した、二重に歪んだ構造をもつ負の遺産というべきである。
ちなみに、公立美術館の第2号は京都市の大礼記念京都美術館、現在の京都市美術館である。昭和3(1928)年に京都で昭和天皇即位の大典が行われたのを記念し、市民から寄付金が集められ、同8(1933)年に創立。ここでは美術団体に会場を貸すだけでなく、常設展示を行うことや、美術展の出品作品を買い上げてコレクションを充実させることなども検討されたらしいが、結局は東京府美術館と同様、しばらくは貸し会場として機能することになる。
さて、美術館とは名ばかりの貸し会場としてスタートを切った東京府美術館だが、まったく作品収集を行っていなかったわけではない。戦前までのコレクションはわずか13点のみだが、開館40周年を前にした1965年には、油彩画89点、日本画22点をはじめ計145点を数えた。そして、このころから建物の老朽化が問題化し、新美術館の建設準備委員会が設置される。と同時に、美術館の性格づけも再検討され、これまでの貸し会場に加え、企画展と普及事業を3本柱とする基本方針がまとまり、専門職として学芸員を導入。ようやく美術館としての体裁を整えることになった。
こうして1975年、現在の東京都美術館が開館。いささか威圧的だった旧館は、なかば地下に埋もれるモダンな新館に取って代わった。赤瀬川いわく「聖なる空間への階段は、上に昇ることなく、下に降りて行く構造になってしまった」。
もちろん変わったのは建物だけではない。このとき都美術館のめざすべき方向も明確化。上野公園には、すでに日本と東洋の古美術を収集展示する東京国立博物館と、西洋美術専門の国立西洋美術館(1959年開館)があるため、都美術館のコレクションと企画展はおのずと日本の現代美術を柱にすえることになった。当時、ほかに現代美術をコレクションする美術館はほとんどなく、安価で手に入るうえ寄贈も期待できたからだ。しかし、相変わらず展示室の大半は団体展で占められており、企画展示室は3フロアあるとはいえ全展示面積の15分の1以下しかなく、コレクションの常設展示と企画展示は両立できない。そこで、年に6回ほど展示替えをしながら、企画展とコレクション展を交代で見せていくほかなかった。
これが解決されるには、常設展示室と企画展示室を併設した巨大な東京都現代美術館が木場に誕生する1995年まで待たなければならない。東京に同時代美術を見せる美術館をとの声が挙がってから十全に実現されるまで、実に70年以上かかったわけである。だが、東京都現代美術館の開館は時期が最悪だった。最近では作品購入予算が打ち切られ、企画展の予算も削減される傾向にある。ようやく巨大な展示空間を確保したとたん、それを維持していくだけで四苦八苦しなければならないとは、なんとも皮肉な話である。
以下は余談。こうして振り返ってみると、東京都美術館は最初は美術団体の貸し会場として出発し、そこに現代美術を中心とするコレクションと企画展示が加わり、両者が切り離されるという段階をたどってきた。これが世界の美術館と逆行していることはあらためていうまでもないが、好意的な見方をすれば、美術団体に割く割合を相対的に減らすと同時に現代美術の割合を増やし、また両者を分断することによって、少しでもグローバルスタンダードに近づけようと努力してきた姿勢は評価できる。
だが、それは必ずしも美術団体の退潮を意味するものではない。美術団体は数をかさにきた政治力をもつからやっかいなのだ。たとえば、日本美術院理事長の平山郁夫は政府に働きかけ、六本木の防衛庁跡地に国立で美術団体専用の貸し会場、その名も「ナショナル・ギャラリー」を実現させようとしている。美術団体の逆襲である。なるほど、たしかに国立のうえ、美術団体も貸し会場も日本でしか通用しないから「ナショナル」に違いないし、テンポラリーに作品を展示するだけで美術館とはいえないから「ギャラリー」というほかない。「国立国際美術館」などと銘打つよりよっぽど理にかなっている(ちなみに、大阪の国立国際美術館の英語表記は「The National International Museum」かと思ったら、単に「The National Museum of Art,Osaka」というらしい)。
しかしロンドンにしろワシントンにしろ、「ナショナル・ギャラリー」といえばその国を代表する美術館。美術団体専門の貸し会場が日本を代表する美術館と思われていいものだろうか。ここはひとつ英語ではなく「団体展会場」とか「国粋画廊」と日本語表記するか、英語なら「ドメスティック・ギャラリー」または「ナショナリスティック・ギャラリー」とでもしてほしいものである。
[参考文献]
乙葉哲「東京都現代美術館コレクションについて―その群と流れ」、
図録『日本美術の20世紀』2000年、東京都現代美術館
『博物館学講座2日本と世界の博物館史』雄山閣出版
『現代美術館学』昭和堂
赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ!』筑摩書房 |