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連載
美術の基礎問題 連載第12回
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1.美術館について
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(5)美術館建築――1

 ヨーロッパの美術館を訪れてまず圧倒されるのは、スケールの大きさやコレクションの膨大さもさることながら、その外側をおおう美術館建築がいかめしいまでに古典的様相を呈していることである。とりわけ大英博物館ルーヴル美術館といった重量級の美術館においては、都市のど真ん中に位置しているというロケーションともあいまって、西洋人の美術に対する底知れぬリスペクトを感じてしまうのだ。
 たとえば大英博物館。敷地に入るとまず、数十本ものイオニア式円柱が立ち並ぶギリシア神殿のようなファサードに威圧される。彫刻を施したぺディメントを見上げながら石づくりの階段を上るときには、いくら不信心者でもそれなりに謙虚な気分になろうというものだ。2列に並んだ円柱をくぐり抜けて吹き抜けのロビーに足を踏み入れると、内側からは見えないが正面に円形の大ドームがそびえ、それを取り囲むようにギャラリーが伸びている(この円形ドームに入っていた大英図書館は3年前に移転し、現在はガラス屋根のグレートコートになっている)。
 以前にも述べたように、大英博物館が既存のモンタギュー邸にオープンしたのは1753年のこと。しかしコレクションは増える一方ですぐ手狭になったため、19世紀なかばに新古典主義の建築家ロバート・スマークの設計により、現在の建物に建て替えられた。その後も増改築を繰り返してきたが、いかめしいファサードは150年前の建設当時とほとんど変わっていない。ちなみに、ぺディメントのある円柱のファサードは古代ギリシアの神殿を、天窓のある円形ドームは古代ローマのパンテオンを規範にした「グレコ・ローマン様式」。その起源をさかのぼれば、16世紀に古代ローマ建築を復興した建築家パラーディオ、およびパラーディオニズムに行きつく。だが、ロバート・スマークの直接のインスピレーション源は同時代のドイツの建築家、カール・フリードリヒ・シンケルにあった。なかでもシンケルの設計したベルリンのアルテスムゼウム(古美術館、1830年完成)は、ファサード全面を18本のイオニア式円柱で構成し、建物の中央にパンテオン風のドームを据えた荘厳なプランで、大英博物館がこれにならったことは明らかである。
 このシンケルと、ミュンヘンのグリプトテーク(彫刻館、1830年)やアルテピナコテーク(古絵画館、1836年)を手がけたレオ・フォン・クレンツェのふたりが、以後続々と建てられる第1世代の美術館の基本プランを確立したといっていい。すなわち、円柱を並べたファサード、石段を上って入るアプローチ、ドームをかぶせたエントランスホール、そのホールを起点に両翼と奥に伸びる左右対称のギャラリー、という建築構造だ。ロンドンのナショナル・ギャラリーしかり、テート・ギャラリー(現在のテート・ブリテン)しかり。マドリッドのプラド美術館しかり、ウィーンの美術史美術館しかり。まさに「美の殿堂」「ミューズ神殿」というにふさわしい荘厳な面がまえといえる。
 それにしても、なぜ19世紀の美術館はかくも古典的な趣を呈しているのだろうか。その最大の理由はもちろん当時が新古典主義全盛の時代だったからであり、美術館に限らず多くの公共建築は古典様式で建てられていたのだ。しかしそれだけではない。市民革命や産業革命後の19世紀は旧体制が崩壊し、それまで絶対的であった権威や価値が転倒した時代であった。それゆえに一部の支配層に独占されていたコレクションが一般公開され、美術館が成立するのだが、そのとき彼らは、旧体制のシンボルだった豪華な宮殿や庁舎をそのまま美術館に転用する(ルーヴル、ヴァティカンウフィツィなど)か、新たに建てる場合はいかにも「美の神殿」として建設したからである。それを補強するかのように、ルーヴルや大英、あるいはベルリンのペルガモン美術館では、ギリシアやメソポタミアあたりから神殿の遺跡をごっそり持ち帰って館内に移築したり、美術館建築の一部に組み込んだりしたのだ。
 このような「神殿型」の美術館は、19世紀後半から20世紀前半にかけてあいついで建てられたメトロポリタン美術館ボストン美術館フィラデルフィア美術館、ワシントンのナショナル・ギャラリーまで、とくにアメリカで多く見られる。それは、彼らの古典古代への憧憬を物語ると同時に、アメリカには単に美術館に転用すべき宮殿がなかったという理由にもよる。こうして美術館の存在は、その都市を象徴していた王宮や神殿に取ってかわる新たな文化的シンボルになっていった。だから美術館は経済効率を度外視して都市の中心部に居座っていられるのだ。
 余談だが、このような歴史を共有しないまま美術館という制度だけ輸入した日本では、しばしば土地が余っている(安い)というだけの理由で、さもなければ政治的な力関係によって辺鄙な場所に厄介払いされ、結果的にますます人が入らなくなるという悪循環に陥りがちである。美術館はその都市や国の文化度を計るバロメーターであり、シヴィック・プライド(市民の誇り)となるべきだと考えれば、このような本末転倒は起きないはずである。東京都現代美術館は皇居か有楽町の旧都庁舎跡に建てるべきであった。

 おっと脱線した。話を美術館建築に戻そう。
 20世紀に入って、近代美術館および近代建築の誕生とともに美術館建築も大きく変わる。その先陣を切ったのはアメリカであり、とりわけMoMAであった。MoMA の建築における重要性は、外観よりむしろ内部の「ホワイトキューブ」の展示空間にあるのだが、それは次回にまわすとして、とりあえず今回は外観について述べたい。
 MoMAは1929年、ニューヨークの5番街57丁目にあったビルの1室にオープンし、1932年に現在の西53丁目に移転。1939年には、フィリップ・グッドウィンとエドワード・ストーンの設計による6階建てのモダンなビルが完成した。これまで「神殿型」の美術館を見なれた目からすれば、直線だけで構成された四角い箱型のこの建物は、どう見たって普通のオフィスビルにしか見えず、とても美術館とは思えない。当時の写真を見れば、隣のビルのほうがよほど装飾的で美術館らしく見えるくらいだ。アメリカにおける「神殿型」美術館の典型ともいえるワシントンのナショナル・ギャラリーが落成したのが、その2年後の1941年であることを考えれば、MoMAがいかに早くからモダニズムに徹していたかがわかるだろう。以後も、1980年代にはシーザー・ペリの設計で超高層ビルが建てられ、いままた谷口吉生による拡張工事が進められている。このような増改築が可能なのも、基本がシンプルな四角い箱型であるからだ。
 ところで、ニューヨークにはMoMAのほかに、ホイットニーグッゲンハイムというふたつの近代美術館がある。どちらも財閥のコレクションをもとにした私設美術館で、設立は1930年代にさかのぼるが、ホイットニー美術館はマルセル・ブロイヤーの設計で1966年に、グッゲンハイム美術館はフランク・ロイド・ライトの設計で1959年に、それぞれ現在の建物が完成している。このうち美術館建築として論議を呼ぶのは、螺旋形をしたグッゲンハイムのほうである。
 ここでは、入館するとまずエレベーターで最上階まで昇り、そこから螺旋状にスロープを下りながら壁面の作品を見ていくという画期的なプランが実現されている。これなら順路からはずれたり作品を見落としたりするおそれはないし、なにより螺旋の生み出す曲線が美しい。だが、実際に体験してみると、床面はゆるやかに傾斜しているし壁面も湾曲しているため、作品を展示するにも鑑賞するにも最悪の空間であることがわかる。そのうえ増改築の必要が生じたときは、MoMA のように連続して建て増すこともできなければ、巻貝のように螺旋状に伸ばしていくわけにもいかず、まったく別のビルを建てるしかないのだ(実際に近年の拡張工事では、螺旋建築の背後に対照的な箱型のビルが建てられた)。
 実は螺旋構造の美術館というアイディア自体は、日本にも高橋由一の構想した「螺旋展画閣」があったくらいで珍しいものではないのだが、工事が難しいわりに効果が期待できないのでだれもやらなかっただけなのだ。それをグッゲンハイム美術館が実現させたのは、設計者が当代随一の建築家フランク・ロイド・ライトだったからにほかならない。つまり彼らは、美術館建築というものを単に美術作品を入れるための容器とは見ず、それ自体をひとつの美術表現と考えたわけである。
 このように、名のある建築家に作品としての美術館を設計させる傾向は、70−80年代にポストモダン建築の隆盛とともに強まっていく。まるで工場のような外観を呈するポンピドゥ・センター(レンゾ・ピアノ+リチャード・ロジャース設計、1977年)や、本館とは対照的にシャープな三角形で構成されたワシントンのナショナル・ギャラリー東館(I・M・ペイ設計、1978年)をはじめ、メンヘングラードバッハ市立美術館(ハンス・ホライン設計、1982年)、シュトゥットガルト州立ギャラリー(ジェームズ・スターリング設計、1984年)、ロサンゼルス現代美術館磯崎新設計、1986年)等々。最近では、奔放なデザインのグッゲンハイム美術館ビルバオ(フランク・ゲーリー設計、1997年完成)が記憶に新しい。
 このように建築家が自己主張を強め、デザインの奇抜さを競うようになったのは、美術館というものが合理性や機能性より象徴性を重んじるからであり、それゆえにほかの建築に比べて表現の自由度が高いからにほかならない。しかし、ニューヨークのグッゲンハイム美術館がそうであったように、建築家の自己主張が前面に出れば出るほど、いいかえればデザインが奇抜になればなるほど、そのなかに展示される作品との軋轢が生じやすくなる。建築家の渡辺真理はその具体例として、シュトゥットガルト州立ギャラリーでのハプニングをあげている。「建築家ジェームズ・スターリングがヨーゼフ・ボイスの作品に対して『このジャンク(ガラクタ)をギャラリーから放り出してくれ』と要求。ボイスも『このギャラリーと比べたら、自分が最近個展を開いた旧ボタン工場の方がよほどマシだ』と詳細にわたって反論」したというのだ。
 このような建築家と美術家とのあいだの攻防を、または建築という容器(コンテナ)と美術作品という内容(コンテンツ)との対立を、「コンテナ・コンテンツ問題」と呼ぶ。しかしこれは美術館の内部空間にかかわってくる問題なので、次回に譲ろう。それより、ここで注目したいのは、ボイスが「旧ボタン工場の方がよほどマシ」と述べていること。つまり美術家たちは、有名建築家による奇抜なデザインの美術館より、名もない工場跡のがらんどうの空間のほうが展示には向いていると考えているわけだ。
 このように、使われなくなった巨大な建物を「発掘」し、展示の場として再利用する試みも1980年代からしばしば行われるようになった。たとえば、駅を改装したオルセー美術館(1986年)やハンブルガー・バーンホフ美術館(1996年)、火力発電所跡にオープンしたテート・モダン(2000年)などが代表例である。さかのぼればルーヴルもヴァティカンもウフィツィもそうだ。もともと美術館として建てられたものではないから使い勝手はよくないかもしれないが、美術館がその都市の「記憶装置」としての役割も担うべきだと考えれば、歴史的建造物をリサイクルしたこのような美術館のあり方は、とてもリーズナブルなものに思えてくる。だがしかし、それは100年200年という長いスパンで都市を考え、建築を残そうとする石づくり文化の西洋ならではのことであり、残念ながら日本に波及する可能性は少ない。


[主要参考文献]
Nikolaus Pevsner“A HISTORY OF BUILDING TYPES”Thames and Hudson
Helen Searing“NEW AMERICAN ART MUSEUMS”Whitney Museum of American Art
岩渕潤子『美術館の誕生』中公新書
渡辺真理「コンテナー・コンテンツ問題」、太田泰人+水沢勉+渡辺真理+松岡智子編著『美術館は生まれ変わる』鹿島出版会

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