(5)美術館建築――2
ホワイトキューブ
美術館や画廊の展示空間は、とりわけ近現代美術を扱う施設のそれは、直線に囲まれた真っ白いニュートラルな壁の「ホワイトキューブ」が理想とされる。外観はいかめしい神殿型であろうと、モダンな四角い箱型であろうと、あるいは既存の建物を再利用した倉庫型であろうと、内部は「ホワイトキューブ」で統一されていることが多い。そして、その白い壁面に、隣り合う作品が視野に入らない程度の距離を保って作品をディスプレイするのが望ましいとされる。つまり、作品を「図」として映えさせるためには、その周囲には一定量のなにもない「地」の空間が必要だというわけだ。
しかし、ホワイトキューブが理想的な展示空間とされるようになったのは、そんなに古い話ではない。1929年に開館したMoMAがホワイトキューブを採用してからのことである。
ここでもういちど、美術作品のディスプレイの歴史を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。
美術作品がコレクションの対象になるのは、油絵が発明されて美術が動産化し、商品として流通するようになったルネサンス以降のこと。当時の有力コレクターは私邸に収集室を設けて、美術作品を壁や床にところ狭しと飾り立て、親しい友人や著名な芸術家など限られた人たちに見せていたという。これは以前にも述べた、美術作品のみならず珍奇な自然物コレクションまでいっしょくたに並べる「ヴンダーカマー」や「ステュディオーロ」の延長である。
このころの展示風景を知るには、17世紀にフランドル地方で盛んに描かれた「ギャラリー画」を見るのが手っ取り早い。ギャラリー画とは有力コレクターの収集室の様子を描いた一種の記録画で、絵のなかに数十点もの実在の絵が画中画として克明に再現されているため、そのコレクターがどんな作品を所有し、その作品(画中画)の作者がだれかということまで同定できるほどだ。
たとえば、アントウェルペンのルーベンスハウスにあるヴィレム・ファン・ハーヒトの「コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室」。コルネリス・ファン・デル・ヘーストはコレクターとしても名高い裕福な商人で、画家のヴィレム・ファン・ハーヒトはそのコレクションの管理保存係でもあった。そのため50点を超える絵画・彫刻を緻密に模写したこの絵は、ヘーストのコレクション目録の役割も果たしていたらしい。画中画にはファン・アイク、ピーテル・ブリューゲル(父)、ルーベンスらの作品が認められ、また、そこに集う30人を超す登場人物のなかには主人のファン・デル・ヘーストをはじめ、ネーデルラント総督のアルブレヒト大公とイサベラ妃、ルーベンスやヴァン・ダイク、そしてファン・ハーヒト自身の姿も見える。
ともあれ、この絵で注目したいのはその驚くべきコレクションの陳列方法である。現在のように壁に余裕をもって絵を掛けるなどということはせず、いかに壁に余白を残さずに絵で埋めつくせるかということしか考えてないような、過密な展示ぶりなのだ。そのため作品は時代や地域やジャンルごとに分類されることなく、あたかもジグソーパズルのように壁面を埋めるための1ピースとして奉仕させられることになる。いまの美術館では壁面に占める絵の割合が1割程度だとすれば、ここでは逆に壁面の9割方が絵で埋められているのだ。おそらく当時のコレクターは作品を1点1点じっくり見る(見せる)より、コレクション全体がいかに豊富であるかを誇示したかったのだろう。それにしても、まるで空間恐怖症を思わせる過剰なディスプレイである。
このように作品同士を密着させて展示することができたのは、絵に額縁が、彫刻に台座がついていたおかげである。額縁や台座とは、動産化した美術にはなくてはならない一種の約束事であり、絵画や彫刻のもつ3次元的イリュージョンを現実空間やほかの作品空間から分け隔てる緩衝材(クッション)としての機能をもつ。つまり、額縁があるから個々の絵画空間は独立したイメージとして受け止められるわけで、額縁がなければ隣接する絵画相互のイリュージョンがぶつかり合い、壁面は混乱を来したに違いない。
このような個人コレクションから発展した黎明期の美術館のディスプレイも、こうした17世紀のコレクターの収集室と似たり寄ったりの様相を呈していたようだ。展示室の壁の下には腰板がはめられ、壁自体も色が塗られるか装飾模様の布が張られ、作品の2段掛け3段掛けは珍しくなかった。いくら新しく美術館をつくったところで、内観は従来のコレクターの居間の延長としてしか考えられなかったのだろう。
ところが19世紀に入ると、美学・美術史の発達にともなってコレクションは科学的に分類・整理され、美的・歴史的価値という評価軸にのっとって時代順、地域別、ジャンルごとに再編されていく。それまで壁面全体をおおっていた作品も時間軸に沿って1列に並べ替えられ、観客は順路に沿って部屋をめぐるだけで美術の流れが追えるようになる。こうして美術館の展示は、面的ディスプレイから線的ディスプレイへと移行していったのである。こうした手法を近代美術に適用し、極限まで推し進めたのがMoMAの採用した「ホワイトキューブ」であった。
ホワイトキューブとは、鑑賞者の注意を作品だけに集中させるため、展示空間からいっさいの装飾的要素を排除したニュートラルな空間である。
建築家・評論家のジョセフ・ジオヴァニーニはMoMAのホワイトキューブについて、「何もない空間に物質が浮かんでいる冷たいニュートン的宇宙と多くの点で似通っている。そしてその中立性ゆえに、百科事典的に集められた美術作品を視覚的に比較分析することを可能にしている」と述べている。つまりホワイトキューブとは美術館の外からは隔絶した一種の無菌室であり、どこでもないヴァーチュアルな空間ともいえる。そこに放り込まれた美術作品はまるで実験台に乗せられたサンプルのように、ひとつの物体として観察の対象になるということだ。それがもたらした功罪はさまざまあるが、まずは効用から見ていこう。
ひとつは、ホワイトキューブの空間では古典だろうが現代だろうが、絵画だろうが彫刻だろうが、基本的にいかなる作品にも対応できるということ。むしろ、どんな作品でも展示できるようにニュートラルな空間にしているのだから、これは当たり前のことだろう。逆に、20世紀の美術はホワイトキューブを前提につくられるようになったため、それ以前の美術館での展示にはそぐわなくなっている。ただし、近年流行の兆しを見せる古い美術館や邸宅での現代美術展は、その場からインスピレーションを得てその場で制作するインスタレーションの形式を採ることが多いため、その限りではないが。
さらにいえば、ホワイトキューブの内部に置かれたものは、美術作品でないものすら「作品」として見えてくるという効果をもたらす。1934年にMoMAがフィリップ・ジョンソンの企画で開いた「マシン・アート」展では、バネやプロペラなどの工業製品がいかにも作品然として並べられたものだ。そればかりか、ブライアン・オドハティの言葉を借りれば、「近代美術館のなかにある消火栓はただの消火栓には見えず、美的なナゾに見えてくる」ということもある。言葉は悪いが、美術館のなかではゴミだって作品に見えるということだ。筆者も以前MoMAで、リチャード・ディーベンコーンの幾何学的抽象絵画の隣に長方形のミニマルな物体を見つけ、一瞬だれかの作品だろうと思ったものの、よく見ればエアコンの通風孔だったという経験がある。これはおそらく偶然ではなく、MoMAのキュレーターがこうした心理的効果を利用して、遊び心で並べたに違いない。
また、ホワイトキューブは展示空間の増築や変更に容易に対応できるフレキシビリティを備えていること。とりわけMoMAは、第1世代の美術館のようにコレクションの常設展示に頼るのでなく、テンポラリーな企画展示にも力を入れたため、展示室はしばしばレイアウトを変えなければならなかった。その際にホワイトキューブであれば、白くて分厚い間仕切り板を移動しさえすれば比較的容易に変更できたのだ。これはMoMAの四角い箱型の建築が、旧来の神殿型美術館に比べて増改築しやすいことと同じ原理である。
ちなみに、内部はホワイトキューブなのに、それをおおう美術館の外観が装飾過剰であれば片手落ちといわざるをえない。その意味で、1939年にフィリップ・グッドウィンとエドワード・ストーンの設計したモダンな本館の完成によって、MoMAは中身と外見が一致し、内外ともに本格的な「近代美術館」として出発することになるのだ。
さらに、ホワイトキューブは絵画から額縁を、彫刻から台座を奪ったということ。先にも述べたとおり、額縁や台座は動産化した美術をどこにでも展示できるようにつけられたクッションであり、作品空間と現実の壁や床、もしくは隣接するほかの作品とを隔てる緩衝材の役目を果たす。ところが、ホワイトキューブの壁面は現実の壁というより、美術作品専用のヴァーチュアルな壁として想定されているのだから、白く平坦な壁そのものが作品の緩衝材=額縁の役割を担うことになる。そのうえ、ディスプレイも17世紀のギャラリー画のように絵画同士を密着展示するわけではなく、おたがいに十分な距離をもって陳列するのだから、額縁の存在理由は希薄化せざるをえない。実際、MoMAの絵画コレクションには最小限の枠がつけられているだけか、さもなければ額縁は取り払われてしまっている。
もっともこれは、ホワイトキューブが額縁の役割を代行したというより、20世紀初頭に誕生した抽象芸術が額縁をなくす契機となった、というべきだろう。なぜなら抽象は絵画から3次元的イリュージョニズムを消し去り、絵画そのものが非再現的な平面性を主張するようになったため、あえて額縁をつける必要がなくなったからである。これは抽象彫刻における台座にもいえることだ。そして、額縁や台座を失った抽象芸術にもっともふさわしい空間がホワイトキューブだったのである。クリストフ・グリューネンバーグによれば、「MoMAのホワイトキューブ・モデルの採用は、モダンアートは必然的に抽象に向かうというバーの考えに関係づけられる」ということだ。
つけくわえれば、額縁や台座を失った絵画と彫刻はやがて展示空間全体に浸出し、空間そのものを作品化する「インスタレーション」の道を開くことになる。
こうして、ホワイトキューブは普遍的な空間であるかのごとく、以後続々と設立される美術館や画廊に採用されていく。しかし、ジョセフ・ジオヴァニーニがいうようにホワイトキューブが「ニュートン的宇宙」に似ているとすれば、もう一歩進んで「アインシュタイン的宇宙」をめざす展示空間が出てきてもおかしくはない。つまり、美術に普遍的な見方や絶対的価値といったものはなく、見る者の立場によって相対的に変化するという視点である。この視点はモダンアートの行きづまりに端を発しており、それは結果的にMoMAの推進したホワイトキューブの「罪」を告発することになった。すなわち、普遍的に見えた「モダニズム」も、MoMAのつくりあげた「モマイズム」にすぎないと。その急先鋒はいうまでもなくポストモダニストたちである。建築家のハリー・コブはいう。
「MoMAでは、容赦なく美術にさらされます。美術、美術、美術の連続。これではプレッシャーが膨れ上がっていきます。フリッツ・コレクションで美術作品を見る方が、MoMAで見るよりずっと気が楽でしょう。美術館とは、絵を見る体験がこの世界の生活の自然な延長であり、生活を豊かにするものと感じさせる場所だと、私は考えています」(註:「フリッツ・コレクション」とはニューヨークにある「フリック・コレクション」の誤記だろう。フリック・コレクションは実業家ヘンリー・クレイ・フリックのコレクションを邸宅ごと公開した美術館)。
つまり絵を見るという体験は、無菌室でサンプルを観察するような味気ないものではなく、生活の延長線上に位置づけられる豊かな体験であるべきだというのである。そのうえで彼らは間仕切りのあるフレキシブルな展示空間を否定し、あらかじめ多様な、ときに装飾的な空間を用意する。
たとえば、ハンス・ホラインはフランクフルト近代美術館において、敷地が三角形だったこともあるが、ほとんどすべての部屋を形も大きさも高さも変えたばかりか、順路さえ設けなかった。したがって作品は時間軸を無視して作家ごとに並べられ、観客は行き当たりばったりに作品と出会うことになる。ホラインはこれに関して、「ニュートラルな空間など存在しない。ただ美術作品と対話するのに異なった大きさの特徴的な空間があるだけだ」と語っている(とはいえ、このフランクフルト近代美術館も、直線に囲まれた白い壁のホワイトキューブを基本単位にしている)。
それにしても、ポストモダニズムの建築家が美術作品に最適な空間を提供しようとしていることは否定しないが、もともとホワイトキューブの空間が美術家のアトリエをモデルに考えられたものであってみれば、彼らの冒険が作品を展示する美術家にとって必ずしもいい結果を生むとは限らないこともたしかである。では、美術家にとって最良の展示空間とはなにかといえば、自分の作品がよりよく見える空間にほかならず、その最大公約数はやはりホワイトキューブに落ち着く。しかしそうはいっても、美術家の意向ばかりを尊重していては美術館の運営が成り立たなくなる……。こうして美術館、建築家、美術家の三つ巴は続くのである。
ともあれ、ホワイトキューブを超え、かつ美術家の表現を最大限に発揮できる展示空間は可能だろうか。可能性があるとしたら、先に少し触れた旧来の美術館や既存の建造物を舞台にした展示であろう。もちろん内部空間はホワイトキューブではなく、むしろ生活感の漂う空間のほうがよい。つまり、ポストモダニストのようにあえて特徴のある場をつくり出すより、すでにある特徴的な空間に作品を放り込むということだ。そこでは完成した作品を運び込むのではなく、テンポラリーであれパーマネントであれ、美術家がその場でプランを立て、現地制作したサイト・スペシフィックなインスタレーションでなければならない。
近年、このような場所での作品展示が一種の流行を見せている背景には、美術家のホワイトキューブへの反発や建築家に対する不信感、そして脱美術館的志向があり、裏返せば、美術家自身が社会とのリアルな接点を求めているということにほかならない。ホワイトキューブは絵画から額縁を消したが、実は美術館そのものが「美術」と「社会」を遮断する額縁のごとき役割を担ってしまっているともいえるのだ。これに関してはまたあらためて書くことにしたい。
[主要参考文献]
・小林頼子「コルネリス・ファン・デル・ヘーストの収集室」、『名画への旅13』講談社
・ジョセフ・ジオヴァニーニ「作品を観賞するふたつ以上の方法。『ギャラリー』の『建築』について考える。」、
『TN Probe Vol.3』1996、TN Prove/大林組
・Christoph Grunenberg‘The modern art museum’ Contemporary Cultures of Display,
Edited by Emma Barker, Yale/The Open University
・Sam Hunter‘INTRODUCTION’The Museum of Modern art, New York, Abrams/The Museum of Modern Art
・渡辺真理「天の窓−スカイライトという問題構制」「パーマネント・インスタレーション」、
『美術館は生まれ変わる』鹿島出版会 |