クールベの個展
19世紀後半に登場したアヴァンギャルドは、アカデミーの主導するサロンに対抗するためみずから展覧会を組織し、旗幟を鮮明にしていく。レアリスムの画家クールベが1855年に開いた個展は、その最初の試みとして記憶される。
そもそも、画家が自分の作品を公開することを個展だとすれば、クールベ以前の18世紀末からアトリエで自作を見せるというかたちで散発的に行われてきた。高階秀爾氏によれば、のちにイギリスのロイヤル・アカデミー会長になるベンジャミン・ウェストは1770年に自作を有料で公開したし、また、新古典主義のダヴィッドもローマ滞在中の1785年にアトリエで作品公開している。フリードリヒ、ターナー、ブレイク、ジェリコーらも同様の試みをおこなってきた。しかしこれらは新作のお披露目か、さもなければ販売を目的とした展示にすぎず、みずからの主義主張をアピールするため会場を借り、まとまった数の作品を展示し、目録まで用意したのはクールベの個展が初めてといっていい。
だが、アカデミズムに反旗をひるがえしたクールベも、最初はほかの画家と同様サロンへの入選をめざしていた。1841年に初出品したが落選。1844年に初入選し、以後1846年まで3年連続で入選を果たす。とこう書くと、彼は意外にもサロンと相性がよかったのではないかと思われるかもしれないが、実はこの間に20点を超す作品を出しており、うち入選したのは3点にすぎないのだ。打率でいえば1割5分以下。しかも翌1847年には3点すべてが落選する。人並みはずれて自尊心の強かった彼にとって屈辱的な結果だったに違いない。
1848年に2月革命が勃発。それにともなって美術制度が改変され、とりあえずクールベに有利な情勢となった。第2共和制下の美術行政はその年のサロンを無審査とし、彼の送った10点すべてが展示されたからだ。翌年には「オルナンの食後」が国家買い上げとなり、2等賞を受賞。これによって彼は以後のサロンに無審査で出品できる権利を得る。しかし、凡百の画家にとってサロン入選は目標であり、受賞はゴールであったかもしれないが、野心的な彼にとってサロンは自分の作品を世に問うための出発点にすぎなかった。
当時、美術界に君臨していたのは、古典主義の巨頭アングルとロマン主義の領袖ドラクロワだ。この2大勢力のめざす方向は正反対を向いていたとはいえ、大きく見ればどちらも神話や文学を主題にした歴史画であり、いってしまえば壮大な絵空事である。そこにクールベは、身近な風景や世俗の人々を美化することなく(つまり薄汚いままに)描いたレアリスム絵画でなぐりこみをかけようとしたのだから、予想以上に反発と非難は激しかった。しかし彼はめげるどころかますます意気盛んにレアリスムを推進し、アカデミー派との摩擦を強めていく。
そして1855年。サロンはこの年パリで初めて開かれる万国博覧会に吸収合併されることになった。万博といえば1851年に開催された第1回ロンドン万博が有名だが、1855年以降はパリが主導権を奪い、1900年までほぼ11年ごとに開かれていく。後発のパリ万博は、産業博覧会であるロンドン万博とは違った独自色を打ち出すため美術部門を設置し、アングルとドラクロワの2大巨匠の展覧会を企画すると同時に、人気の高いサロンを取り込んだのだ。
クールベはここに新旧の自信作13点を出品。ところが「オルナンの埋葬」と「画家のアトリエ」の2大作が審査で拒否されてしまう。これに憤慨した彼は万博会場の向かい側に仮設の特設会場をしつらえ、この2大作を含む40点を集めて個展を開いたのだった。入口には「レアリスム」と書いた看板を掲げ、会場で売られた目録には、「私の時代の風俗、思想、外観を自分自身の判断にしたがって翻訳すること、画家であるだけでなくひとりの人間であること、要するに生きた芸術をつくること、それが私の目的である」と謳った。いわゆるレアリスム宣言である。
この個展開催には伏線があった。その2年前、当時の美術総監ニューヴェルケルク伯爵がクールベを昼食に招き、もし穏便な作品をつくってくれるなら万博の展覧会に招待したいと懐柔策に出たのだ。画家はこの提案をけって物別れに終わったが、このときクールベのなかに個展の構想が生まれたという。
個展の入場料は万博と同じ1フラン。万博という国家的事業に対抗し、アングルとドラクロワの大展覧会を向こうにまわして、クールベは強気だった。ところが客足は思ったほど伸びず、入場料も途中で半額に値下げせざるをえなくなり、興行的には失敗に終わった。
いまでこそクールベの個展は、アカデミズムの牙城にひとり立ち向かう勇気ある試みとして、近代美術史のひとつの結節点に位置づけられようが、当時の人々の目にはドン・キホーテのごとき誇大妄想的な蛮行と映ったに違いない。だが、美術が本格的に近代の幕を開けるには、こうした野蛮な試みを積み重ねていくしかなかったのだ。
マネと「落選者展」
1863年に開かれた「落選者展」は、画家たちが一致団結して組み立てたグループ展ではないが、サロンに対する反発や不満がきっかけとなって組織されたもので、クールベの個展以上の反響を呼び、近代美術史のメルクマールとなっている。その主役を務めたのはマネ。皮肉なことに、彼もまたサロンへの熱心な応募者であり、たとえサロンが敵視しようと彼自身は入選・入賞にこだわり続けたのだった。
1855年以来、サロンはパリ万博のパビリオンとして建てられた産業館(パレ・ド・ランデュストリー)を舞台に隔年開催となり、審査権限も再びアカデミー会員にゆだねられていた。応募作品は毎回5千点を超え、うち入選するのは2-3千点。ひとくちに2-3千点といっても実感がわかないだろう。日本の美術館でおこなわれる特別展の出品点数はたいてい100点前後、200-300点も出ていれば多すぎると感じるものだが、その10倍である。ちなみに、2000年の日展の入選と無監査を合わせた総陳列点数は2921点におよぶが、これにはおびただしい量の書や工芸も含まれており、日本画・洋画・彫刻だけに絞れば1300点となる。サロンの出品点数がいかに多いかがわかるだろう。
マネは1859年に初挑戦したものの落選。1861年に初入選し、1点が佳作賞を受けた。だがそれで満足するような画家ではなかった。1863年のサロンでは決定的な評価を得ようと、より野心的な「草上の昼食」(当初は「水浴」と呼ばれていた)を含む3点を送り込む。それだけでなく、サロンの直前に当時としては珍しく画廊で個展を開き、批評家や審査員の目を引きつけようとした。ところがそんな努力も空しく、3点とも落選してしまう。
この年はいつになく審査が厳しかったようで、マネだけでなくほかの落選者たちからも不満や抗議の声が上がり、まもなく時の皇帝ナポレオン3世の耳にも届く。皇帝は落選作を何点か見たうえ、審査が妥当であったかどうかの判断を一般の人々にゆだねるため、これらを同じ産業館に展示して入選作と比べられるよう取り計らったのだ。これが前代未聞の「落選者展」である。したがって「落選者展」の発案者はサロンの落選者でもなければアカデミーでもなく、ナポレオン3世その人だった。
とはいえ、いまから見れば弱きを助ける「大岡裁き」ともいえそうなこの救済策も、実のところ判断を他人にゆだねようとする皇帝の優柔不断さによるものだといっていい。そのためこの展覧会は、揶揄的に「皇帝のサロン」とも呼ばれたらしい。ともあれ、このような展覧会はサロンの存在と審査制の意義を揺るがさずにはおかないから、あくまで例外的措置だったのである。
もちろん、落選作を公開するのは不名誉なことだからとか、サロンの審査員の心証を害するからという理由で出品を辞退する者も少なからずいた。こうして2800点もの落選作のうち、1200点ほどが産業館の下の階で公開されることになった。そして皮肉にもこの「落選者展」は人々の好奇心をくすぐり、正規のサロンに勝るとも劣らぬ人気を博すのである。その様子を、ゾラは画家を主人公にした小説『制作』のなかで次のように活写している。
「会場はすでに人の群れであふれており、なおも刻々とその数を増していた。というのは、だれもが正規のサロンはそこそこにして、好奇心にかられ、審査員を審査してやろうといった気がまえで、落選展のほうに押し寄せてくるのだった。とにかく、入り口から、なにかとてつもなくおもしろいものが見られそうだという期待が、人々を駆り立てていた」
「どの壁面にも、秀れたもの劣悪なもの、まさに玉石混淆、かつあらゆる流派がひしめいていた。もうろくした歴史派の作品が、若い熱狂的なレアリスム絵画と肘つき合わせている。独創性をやけにひけらかしたもの、愚劣きわまるもの、とにかくうんざりするほどあった」
ちなみに、このときのサロンのスターといえば、カバネル、ボードリー、フランドランといった、いまでは名前さえ忘れられたポンピエ(陳腐)の画家たちであり、たとえばカバネルの「ヴィーナスの誕生」は、波に横たわる裸身のヴィーナスのうえに天使たちが飛びまわるという甘美なもの。対する「落選者展」のほうにはマネ、ホイッスラー、ファンタン・ラトゥール、ピサロらがいた。なかでもマネの「草上の昼食」とホイッスラーの「白い服の女」が批判の槍玉にあげられ、スキャンダルを巻き起こす。
ゾラは実際に「落選者展」をセザンヌと見に行き、セザンヌをモデルに『制作』を書いたとされるが、この場面では主人公の画家クロードをマネに重ねている。そのクロードが見たものは……。
「入り口では控えめであった笑い声は、中に進むにつれ高くなる一方で、第三室ではもはや、つつしみのかけらもない哄笑だった。女たちはハンカチで口を押さえることなどせず、男たちとくれば、腹をかかえての高笑いだった。それは、ただ楽しむためにやってきた群衆に伝染する歓声のような笑いだった。美しいもの、醜いものの区別などなく、どんなとるに足らないことにでも、笑いころげているのだった」
「クロードは、ずっと一行の最後尾にいたが、あいもかわらず湧き上がる笑い声にじっと聞き耳を立てていた。騒ぎはひどくなる一方で、いまや怒涛の雄叫びだった。やっとの思いで中に入りこんだとき、彼は、自分の絵の前に人々が山のように群がっているのを目にした。部屋の中は、爆笑にみち、騒ぎが頂点に達している。しかもそれはすべて彼の絵に集中しているのだった」
嘲笑の的になった絵とはいうまでもなく「草上の昼食」のこと。ゾラのこの描写はいささか大げさにも思えるが、そのときの人々の反応はすさまじいものだったらしい。マネはこの作品が反響を呼ぶことを見越して、いわば確信犯的に出したにもかかわらず、実際には反響というより、予想をはるかに上まわる反発を呼び起こしてしまったのである。
たしかに田園のなかで裸の女性と着衣の男性がくつろぐ姿は不自然でこっけいだが、この主題はジョルジョーネの「田園の奏楽」に先例があるように珍しいものではない。それより、恥毛のない全裸の女性が身をくねらせるカバネルの「ヴィーナスの誕生」のほうが、よっぽど刺激的ではないか。問題はむしろ描き方にあった。マネはこの裸婦を、これまでにない大胆不敵なポーズで、明るい色彩を用いて平坦に描き出した。それがサロン絵画を見なれた観衆をとまどわせ、笑いに向かわせたに違いない。だが、こうした「未視感」に挑む姿勢こそアヴァンギャルドたるゆえんであり、それはのちの印象派に受け継がれていくのである。
第1回印象派展
1865年、つまり「落選者展」の開かれた次の回のサロンにマネは「オランピア」を入選させ、はからずも「草上の昼食」以上のスキャンダルを引き起こす。そこで彼は1867年の第2回パリ万博に際し、クールベにならって個展を開催したものの、客が入らず失敗に終わり、再びサロンをめざすことになる。
このころマネはカフェ・ゲルボワで、ゾラ、ドガ、バジールらと交流を深め、やがてセザンヌ、モネ、ルノワールらも合流して画家たちのサークルが生まれる。彼らはしばしば激論を交わし、ときに衝突したが、いずれもサロンに出品していたにもかかわらず、その旧套的な体質に不満を感じていた点では意見が一致した。
1870年には普仏戦争が起こり、続いてパリ・コミューン、第3共和制の成立と社会は揺れ動く。第2帝政下の自由放任主義への反動からサロンは保守的傾向を強め、審査も厳しさを増していく。とくに1873年のサロンには多数の落選者を出したため、10年ぶりに「落選者展」が開かれることになった。
この年、カフェ・ゲルボワに集う画家たちは、サロンにかわる自由な作品発表の場として、リスクの大きい個展ではなく、メンバーを募って資金を分担するグループ展を計画。翌1874年、繁華街のカピュシーヌ大通りに面した写真家ナダールのアトリエで「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社第1回展」が開かれる。これがすなわち「第1回印象派展」である。会期は「落選者展」との違いを強調するため、サロンの開幕より2週間あまり早めたという。
参加したのは、モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、セザンヌ、シスレー、ベルト・モリゾら30人で、出品点数は計165点。実のところ、印象派の画家としていまに名を残しているのは彼らくらいで、あとの3分の2以上は印象派とはなんの関係もないサロンの常連だったり、名もない画家だったりした。その意味で玉石混淆の混成部隊といっていい。だいいち、このグループ展の発端となったマネはサロンのほうに出品し、こちらには参加してないのだ。
肝心の出品作品は、あいもかわらず丹念に描き込んだ歴史画を優先するサロンに比べれば、日常的な主題を明るい色彩で素早く描いた風景画が多く、クールベやマネの推し進めてきた「改革」を受け継いでいる。だが、これが観衆には理解できない。筆触の残る軽快なタッチも、スケッチ程度の未完成作品にしか映らなかったらしい。なかでも激しい非難にさらされたのが、マネの「オランピア」にヒントを得たセザンヌの「新しきオランピア」と、モネの「印象−日の出」だった。
とりわけ港での日の出の情景を描いた「印象−日の出」は、朝もやに溶け込ませるように物事の輪郭をぼかしたためとらえどころがなく、人々の不興を買った。観衆は、なにが描かれているかさえわかればとりあえず納得するものなのだ。この作品の題名を借用して、批評家のルイ・ルロワが彼らを侮蔑的に「印象派」と呼んだのは有名な話だが、それが彼らの通り名となり、第3回展からみずから「印象派展」と称するようになる。
この記念すべき印象派の第1回展は、1ヶ月の会期中3500人を動員。同年のサロンの約40万人に比べれば100分の1にも満たないが、賛否を含めて大きな反響を呼んだことは間違いない。以後「印象派展」は1876、77、79、80、81、82、86年と7回おこなわれることになる。そしてこの間に、画商のデュラン・リュエルは彼らの作品を各地に紹介し、売り込んでいく。それによって印象派の画家たちは生活が保証され、サロンに頼ることなく自由な制作が可能になった。そのサロンも世の流れにさからえず、1881年には政府の管轄から離れて民間組織として独立し、国家が庇護するアカデミズムの牙城としての役割を終えるのである。
このように、アカデミックなサロンに対抗した19世紀後半のアヴァンギャルドたち、すなわちクールベやマネ、印象派の画家たちは展覧会開催の努力によって美術史に名を残し、最終的に勝利を収めていく。イアン・ダンロップいわく、「展覧会を催すにあたっての主導権が今日では外側から、画商や批評家や美術館長の方からやってくる」が、「過去においては、展覧会がもくろまれたのは、個人としてまたあるグループとして活動する芸術家たちからの圧力の結果としてだった。新しい作品を展示するということが百年前にはどんなに困難なことだったかを、人は失念している」と。
[主要参考文献]
・高階秀爾『芸術のパトロンたち』岩波新書
・坂崎担『クールベ』岩波新書
・イアン・ダンロップ『展覧会スキャンダル物語』千葉成夫訳、美術公論社
・ガエタン・ピコン『近代絵画の誕生 一八六三年』鈴木祥史訳、人文書院
・エミール・ゾラ『制作(上)』清水正和訳、岩波文庫
・高橋明也「戦争から平和へ――1874年をめぐるフランスの美術と社会」、
図録『1874年――パリ[第1回印象派展]とその時代』読売新聞社 |