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連載
美術の基礎問題 連載第16回
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2.展覧会について
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常設展と特別展

 ひとくちに展覧会といっても、身内の人しか見に来ないような貸し画廊での個展から、100万人以上を動員する「ブロックバスター」と呼ばれる超大型展まで、規模も目的もさまざまある。近年では画廊や美術館だけでなく、商店街や駅の構内、公園、田んぼ、路上、ウェブ上、ビルとビルの隙間などいたるところで展覧会が開かれるようになった。そうした野外展についてはいずれ取り上げるとして、ここではひとまず美術館の展覧会から始めよう。
 美術館での展覧会は、大きく分けて常設展と特別展(企画展)に分類できる。常設展とはいうまでもなく、その美術館の所蔵するコレクションを展示することだが、コレクションのすべてを展示するとは限らない、というより、その一部しか展示しない(できない)のがふつうだ。とりわけコレクションが数十万点規模におよぶ大型美術館では、スペースの制約上、展示できるのは1割未満というところも珍しくない。
 たとえば、ルーヴル美術館やウフィツィ美術館といった近代以前の美術を対象とした美術館では、新たに作品を購入することはあっても作品そのものの数が限られているため、コレクションの伸びは頭打ちになるはずだ。ところが近現代美術館の場合、コレクション対象作品は現在進行形で増え続けていくわけだから、「美術」が滅びるか「近代」「現代」が終わるか(あるいは美術館の購入資金が途切れるか)しない限り、コレクションも増え続ける運命にある。それに対応するには、MoMAのように何度も増築を繰り返すか、グッゲンハイム美術館のように各地に分館を設けるか、とにかく拡張し続けるほかないだろう。
 ちなみに、MoMAの初代館長アルフレッド・バー2世は、コレクションを現時点からさかのぼること50年以内に制作された作品に限定し、それを過ぎた古いコレクションは売却して新たな作品の購入資金にあてようとしていたという。これにしたがえば2001年現在、MoMAでは1951年以降の作品しか見られないことになる。

 このような「変化し続けるコレクション」の方針は、「拡張し続ける美術館」への対抗手段として(そして作品購入の資金確保の方策としても)きわめて有効ではあるものの、初期のコレクションを売却することへの批判が高まり、1950年ごろにこのアイディアは放棄された。これによってコレクションの起点は19世紀末の後期印象派に固定され、あとは未来に向かって伸び続けるしかなくなったのである。MoMAの「拡張し続ける美術館」の宿命はこのとき決定づけられたといっていい。それにしても、もし「変化し続けるコレクション」の方針がそのまま生きていたなら、ゴッホの「星月夜」やピカソの「アヴィニョンの娘たち」はどこかほかの美術館の目玉作品になっていたはずであり(日本かも)、「現代美術」だけのMoMAの入場者数は間違いなく減っていただろう。

 こうして膨大な量の作品を飲み込んできた欧米の美術館は、コレクションのほんの一部を組み合わせるだけで、ヘタな企画展よりはるかに質の高い常設展を組織できるようになった。ルーヴルやMoMAでは、常設展だけで年に数百万人もの客を集めているのだ。
 ところが、日本では常設展を見に美術館へ足を運ぶ人はきわめて少ない。たまたま美術館に行って常設展しかやってなかったりすると、そのまま帰る人さえいる。悲しいかな、常設展はほとんど休館あつかいなのだ。理由は簡単、コレクションが質量ともに乏しいからである。私見だが、わが国で常設展だけでも見に行きたくなる美術館は東京国立博物館しかない。倉敷の大原美術館とミレーの山梨県立美術館はかなりの人出だそうだが、これらは例外的存在だ。このように、日本の美術館は常設展だけでは人を呼べないから、いきおい特別展に頼らざるをえなくなる。こうして美術館は特別展を見に行くところ、という誤解が生じる。もちろん特別展は多いに越したことはないが、しかしそれは美術館本来の姿ではないということだ。
 特別展は多くの場合、あるテーマのもとにほかの美術館やコレクターから作品を借りて開催される。しかし、テーマ自体がその美術館のコレクションから発想されたり、その地域に根ざしたものであれば、当然その館のコレクションを中心に構成されることになる。とくに予算の限られた公立美術館の学芸員はそうした企画に情熱をかたむけるものだし、そうして組み立てられた特別展はその地域にとって意義深いものになるはずなのだが、いかんせん人が入らないのだ。
 逆に、その美術館とは縁もゆかりもない人気画家の作品や、有名美術館のコレクションを借りてくるだけの特別展もある。これらの多くは新聞社やテレビ局が仕切り、宣伝に力を入れるので目立つ。その結果、大量の観客動員も期待できる。しかしそれでは美術館は単なる貸し会場だし、学芸員の出る幕もない。
 そんな特別展のなかでも近年増えているのが、海外の有名美術館展やコレクション展の類だ。現在開かれているものでも、京都市美術館の「チャルトリスキ・コレクション展」(10月28日まで)、岩手県立美術館のオープニングを飾る「メルツバッハー・コレクション展」(11月11日まで)、上野の森美術館の「MoMA名作展」(2月3日まで)などがある。こうした美術館コレクション展が増えている理由は、前述のように大量動員がのぞめるほか、相手美術館が休館や展示替えの時期であれば作品をまとめて借りられるし、しかも交渉窓口がひとつのため手間隙が省けるという内部事情もある。いささか屈辱的な話だが、欧米の美術館では常設展にすら出されない作品でも、日本にもってきて並べれば立派な特別展になるのだ。

 大量動員の話が出たついでに、浅野敞一郎の大著『戦後美術展略史』を参考に、日本で100万人以上の入場者数を記録した特別展をあげてみよう。
(1)万国博美術展(1970、万国博美術館)、178万人
(2)モナリザ展(1974、東京国立博物館)、151万人
(3)ツタンカーメン展(1965、東京国立博物館)、130万人
(4)バーンズ・コレクション展(1994、国立西洋美術館)、107万人
 「万博美術展」は、大阪万博の会場内に建てられた万博美術館(現在は国立国際美術館)でおこなわれた展覧会で、内外から古今東西の美術品を集め「世界美術史」を編成しようとした壮大な試み。期間が6ヶ月と長かったこともあり最多記録となった。ちなみに、大阪万博全体の入場者は約6400万人。
 「モナリザ展」は超有名作品の単独展。1点でこれだけ動員できるのはおそらく「モナリザ」しかないだろう。「モナリザ」が貸し出されたのは1963年のアメリカ展に次ぎ2度目で、アメリカでの動員数もなぜかほぼ同じ150万人。ルーヴル美術館から貸し出されているので有名美術館コレクション展ともいえる。
 「ツタンカーメン展」は東京のあと京都、福岡を巡回したが、これは東京だけの入場者数。3会場全体では293万人にもおよぶ。浅野氏によれば、ひとつの展覧会としてはおそらく世界記録だろうとのこと。エジプト国立博物館からの出品。
 「バーンズ・コレクション展」は、コレクターのアルバート・C・バーンズが築いたコレクションを公開したもの。フィラデルフィア近郊にあるバーンズ・コレクションの建物を改修するため、印象派からエコール・ド・パリまで門外不出の作品が異例の措置として貸し出された。典型的な有名コレクション展。
 これを見れば、どのような展覧会を企画すれば大量の人を呼べるかわかるだろう。まずなにより、「門外不出」の名門コレクションをもってくることだ。そのコレクションの所有者が資金繰りに困っていたり、建物の改修工事が予定されていればなおいい。コレクションの中身はだれでも知っている超有名作品が1点でも混じっていること。しかし、それを借りるためには相手国の大物政治家を動かし、億単位の金を用意しなければならない。要するに、学芸員の力では不可能なのである。結局、学芸員の出番が少ない特別展ほど観客動員が見込める、ということだ。

国際展

 個々の内容は別にして、現在世界中の美術関係者から注目を集める展覧会といえば、おそらく国際展とアートフェアだろう。国際展は、文字どおり国境を超えて美術家が作品を出品する展覧会のこと。ヴェネツィア・ビエンナーレのように2年に1度とか、ドクメンタのように5年に1度といったように数年ごとに開かれるのが特徴だ。その目的や形式は展覧会ごとに異なるし、また同じ国際展でも時代によって変化する。それについて述べる前に、アートフェアにも触れておきたい。
 アートフェアは、画商がそれぞれの扱い作品を1ヶ所に持ち寄って、ブースごとに展示販売する見本市のこと。もとをたどれば、17世紀のイタリアやオランダの都市に立っていた、展覧会の起源ともいうべき定期市にまでいきつくはずだが、当時の市が画家個人か画家組合の単位で出していたのに対し、アートフェアは画商単位だ。このような近代的アートフェアは、1960年代にドイツのケルンで始まったとされ、現在ではパリの「FIAC」、バーゼルの「アートバーゼル」、マドリッドの「ARCO」などが知られている。日本では横浜に始まり、現在は東京国際フォーラムで開かれている「NICAF」が代表的。
 アートフェアは基本的に作品売買を目的とした見本市なので、純粋な展覧会とはいえないかもしれない。だが近年は売買だけでなく、さまざまなイベントや特別展を企画するなど娯楽的要素も加えられ、美術関係者のみならず一般の愛好家の数も増えている。期間は1週間程度と短いが、どこも10万単位の人が入るという。ともあれ、美術の現在を占うには、ヘタな現代美術展よりはるかに有効なバロメータになっている。

 さて、国際展である。
 現在も続いている国際展のなかで、もっとも歴史が古いのはヴェネツィア・ビエンナーレである。1895年に第1回展が開かれて以来ほぼ2年に1度おこなわれ、今年49回を迎えた。これだけ長寿になると、さすがに時代遅れといわざるをえないような旧式の制度も残されていたりする。そのひとつが、会場内に参加各国が建てたパビリオンのなかでその国の代表作家が作品を展示するという国別参加方式であり、もうひとつは授賞制度である。なぜこのような制度が生まれ、いまだに残っているのか、それを知るには、足かけ3世紀におよぶビエンナーレの歴史とその時代背景を振り返ってみなければならない。
 ヴェネツィア・ビエンナーレがスタートした19世紀末といえば、ヨーロッパ各国が覇権争いを演じるなか、イタリアやドイツなど近代的な国民国家が成立し、資本主義社会が定着していくころ。ロンドンやパリをはじめ各国で万国博が催され、第1回ビエンナーレの翌年には近代オリンピックも始まっている。つまりヨーロッパの国々は政治・経済だけでなく、産業・文化・スポーツなどの面でも競い合っていた時代なのだ。だから万国博やオリンピックもそうであるように、国家間の対抗意識をあおる国別参加方式が生まれたのは当然のことだった。それに拍車をかけたのが授賞制度だ。
 こうした国家主義の傾向は1920-30年代のファシズムの台頭とともにいっそう強まり、ビエンナーレはムッソリーニによって、国威発揚と民族主義高揚のための装置として利用されていく。1934年、ムッソリーニと会見するためヒトラーがビエンナーレ会場を訪れたときの写真は有名だ。
 第2次大戦後、国家主義に代わって幅をきかせるようになったのが商業主義だ。というより、国家主義が商業主義に追従し始めたのだ。ビエンナーレでの受賞はオリンピックの金メダルと同様、国益にかなうとの判断から熾烈な賞獲り合戦が繰り広げられていく。1964年、アメリカが国家の威信をかけて軍艦でラウシェンバーグらの作品を搬送し、念願の国際大賞を獲得したというエピソードは語り草になっている。
 1968年にはパリの5月革命のあおりでボイコット運動が起き、1970年には賞を撤廃。だが、賞のないビエンナーレはメダルのないオリンピックのようなもの。以来、授賞制度の復活する1986年まで、ドイツのドクメンタやパリ青年ビエンナーレといった新興の国際展が台頭してきたこともあって、ビエンナーレは停滞の時期を迎え、改革を余儀なくされる。統一テーマを設けたり、若手作家の登竜門として「アペルト」部門を新設したのもこのころのことだ。そして賞が復活してからは、以前にも増して欧米の「現代美術先進国」による賞獲りレースが激化し、ますます商業主義をあおることになった。ちなみに、ヴェネツィア・ビエンナーレのオープニングと同時期に開かれるバーゼルのアートフェアでは、ヴェネツィアの賞が発表された翌日には受賞作家の作品がズラッと並ぶそうだ。
 ところで、国別パビリオンは現在30ヶ国分しかないが、最近ではパビリオンをもたない国もヴェネツィア市内に会場を借りて展示するようになったため、参加国数は60以上におよんでいる。また、「アペルト」が廃止されたかわりに、総合ディレクターによる企画展示が年々拡充し、旧態依然の国別展示と拮抗してきた。
 現在、世界中でおこなわれる国際展は20を超え、ヴェネツィア・ビエンナーレの重みが相対的に低下してきていることは否めない。そのため、国別展示と授賞制度という前世紀ならぬ前々世紀の遺産を受け継ぎながら、生き残りをかけて少しずつ軌道修正しているようだ。

 このヴェネツィア・ビエンナーレと双璧をなす国際展が、ドイツのカッセルで5年に1度開かれるドクメンタである。双璧といわれる理由は、規模の大きさや影響力の強さで張り合うだけでなく、ヴェネツィアとは対照的な国際展のあり方を示しているからでもある。
 ヴェネツィアとのいちばんの違いは、ドクメンタが国別展示も授賞制度も設けず、毎回ひとりのディレクターにテーマの設定から作家の人選まで一任する方式を採っていることだ。ヴェネツィアも統一テーマを設けているが、パビリオンに展示されるのはその国が選んだ作家の作品なのだから、レベルはまちまちだし統一感にも欠ける。いいかえればそれは、小さな展覧会の集合にすぎないのだ。ところがドクメンタの場合、ひとりのディレクターがすべてを統括するため全体として統一がとれ、展覧会の発するメッセージも明確に伝わってくる。もちろんそのメッセージは独断と偏見に満ちたものかもしれないが、そうであればなおさら展覧会としてはおもしろくなるのだ。
 このようなドクメンタの先鋭性は、以後続々と誕生する国際展のお手本となっており、それはヴェネツィアも例外ではない。つまり「ドクメンタ方式」はヴェネツィアにも影響を与えているのだ。ここ2回ヴェネツィア・ビエンナーレの総合ディレクターを務めたハラルド・ゼーマンが、1972年のドクメンタ5の総合ディレクターとして物議をかもした人であることを思い起こしてほしい。
 しかし、ドクメンタも最初から先鋭的な現代美術展をめざしていたわけではない。ドクメンタ1が開かれたのは1955年のことだが、当初はナチスによって「頽廃芸術」の烙印を押された前衛芸術の名誉回復をめざすローカルな展覧会だった。それが一躍国際的な注目を浴びるのは、1960-70年代に出品作品が現代美術で占められるようになってからのこと。
 その背景には、かつての西ベルリンがそうであったように、冷戦下においてはドクメンタが、自由主義社会の芸術表現を東側にアピールするための広告塔の役割を負っていたということもあるかもしれない。ドイツが東西に分かれていたころの地図を開いてみると、開催地のカッセルが東独に隣接する都市だったことがわかる。つけくわえれば、現在のカッセルは新生ドイツのほぼ中心に位置しているが、これも偶然ではあるまい。東西分裂時には東側との国境近くにあり、やがて実現するであろう統合後はドイツの中心になるという地理的条件が、カッセルで国際展を始める大きな動因になっていたはずである。

 こうしてみると、いまでこそ「現代美術の祭典」として楽しまれているヴェネツィア・ビエンナーレもドクメンタも、創設当時はきわめて政治色の濃い国際展であったことがわかる。しかし近年では、いわゆる「街おこし」のような、開催都市の文化的・経済的活性化が国際展開催の大きなモチベーションになってきているようだ。カッセルがドクメンタをおこなうもうひとつの理由もおそらくそこにあるに違いない。
 もともと観光都市であるヴェネツィアはいまさら街おこしの必要もなく、その地を訪れた観光客にとってビエンナーレはひとつのオプションにすぎないが、カッセルはとりたてて特徴のない中堅都市なので、ドクメンタ目当てに人が集まり、街おこしにつながるというわけだ。ヴェネツィア・ビエンナーレの入場者が初回からほぼ20-30万人前後と変わらないのに比べ、ドクメンタは当初13万人程度の入場者数だったのが、回を追うごとに増え、ここ2-3回は50万人を越すほどの人気を博しているという事実。これは「街おこし」としてのドクメンタの成功を物語るものだ。この入場者数の差はまた、ヴェネツィアあってのビエンナーレ(都市>国際展)と、ドクメンタあってのカッセル(国際展>都市)の違いともいえる。
 しかし、もし街おこしを目的として国際展を開くなら、美術館や専用パビリオンのなかでやっていてもあまり波及効果はない。それより何ヶ所かに分散させたほうが効果的だし、どうせなら作品そのものを街なかに設置したほうが住人にも身近に感じてもらえるのではないか……。
 こうして発案されたのがミュンスター彫刻プロジェクトである。これは市内各所に作品を点在させ、ガイドマップを片手に見て歩くという「回遊方式」の野外アートプロジェクト。いまでこそ回遊しながら見ていく野外展は珍しくなくないが、その方式を完成させたのはこの彫刻プロジェクトだといっていい。日本でこれに近い方式を採用したのが、2000年に新潟県南部の6市町村にまたがる広大な山野を舞台におこなわれた越後妻有アートトリエンナーレである。しかし、こうした野外アートプロジェクトに関してはまた稿を改めなければならない。
 繰り返しになるが、国際展の目的や開催方式は時代により場所によって少しずつ変化している。また、各地で次々に新設される国際展は、それぞれ新たな美術の方向性を打ち出し、世界の読み方にひとつの指針を与えてくれる。国際展とはさしずめ、ローカリズムとグローバリズムのキャッチボールといえるかもしれない。その意味では、テーマ設定も作家の人選も開催方式も旧来と変わりばえのしない横浜トリエンナーレには、なんの新鮮さも感じられなかった。  


[主要参考文献]
・カーク・ヴァーネドー「教育としてのコレクション:なぜ、どのようにして、ニューヨーク
 近代美術館に名作が展示されているのか」、『MoMAニューヨーク近代美術館名作展』
 カタログ、2001年、上野の森美術館
・浅野敞一郎『戦後美術展略史1945-1990』求龍堂
・村田真「国際展の意義」、『変貌する美術館』昭和堂
・藤川哲「国際展」、『西洋美術館』小学館
・『ヴェネチア・ビエンナーレ−日本参加の40年』国際交流基金/毎日新聞社

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