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アースワーク
最近、美術館や画廊を出て、日常的な都市空間や自然のなかで作品をつくったり展覧会を開く例が増えている。9月以降、筆者が見たものに限っても、倉庫や屋外空間を使った「横浜トリエンナーレ」をはじめ、香川県直島の民家や廃屋に作品をインスタレーションした「スタンダード展」、新宿区内の小学校跡を会場にした「アートイング東京」、広島県のダム建設予定地で進められているPHスタジオの「船をつくる話」、文字どおり建物と建物の隙間空間に作品を置く「スキマプロジェクト」、山口市内の民家9軒に作品を設置した「アート・イン・ザ・ホーム」などがある。
筆者はまあ、好きこのんでこうした野外展や美術館の外でのアートプロジェクトを見てまわっているわけだが、見逃したものにも、たとえば神田のそば屋を会場にした「神田SOBART」や、京都のホテルを舞台にした「アート・イン・トランジット」、新宿の地下鉄駅でおこなわれた「TAMA VIVANT」などがあったし、商店街を使ったものでは下高井戸の「ブランク・ハンティング」や「立川国際芸術祭」、岡山市の「奉還町アート商店街」というのもあった。郊外では、埼玉県の植物園を会場にした「ボタニカルミュージアム」、神奈川県藤野町の「FUJINO国際アートシンポジウム」、千葉県の「芝山アート展」や「我孫子野外美術展」等々、枚挙にいとまがない。繰り返すが、これらは9〜10月の2ヶ月間に開かれたものばかりであり、探せばまだまだあるはずだ。
美術館とはそもそも美術を一般公開するためにつくられ、作品を最高の環境で見せるために整備された施設であるにもかかわらず、なぜ多くの美術家はこのように美術館から出ていこうとするのだろうか。あるいは、なぜ作品を売り出してくれる画廊に背を向けようとするのだろうか。
美術家が美術館や画廊以外の場所で表現活動をおこなうこと、いってみれば「脱美術館」「脱画廊」の傾向は、もちろんいまに始まったことではない。美術館や画廊の制度が確立していなかった時代はともかくとして、20世紀に入ってからでは、未来派やダダによる街頭での示威行動をはじめ、ロシア・アヴァンギャルドやメキシコ壁画運動など革命期の芸術家による社会参加、フルクサスや具体美術協会による野外イヴェント、ハイ・レッド・センターらによる街頭ハプニングなどが思い浮かぶ。だが、これらは一種のデモンストレーションというべきであり、一時の熱狂がすぎれば沈静化していった。
脱美術館・脱画廊を手段ではなく目的として、より継続的におこなうようになるのは、おそらく1960年代後半からだろう。その典型的な例がアースワーク(ランドアート)である。これは土を掘り返したり盛りあげたりして文字どおり大地そのものを造形化する、スケールの大きな作品傾向を指す。代表的な作家にマイケル・ハイザー、ロバート・スミッソン、ウォルター・デ・マリアらがいる。
彼らがアースワークに着手し始めた60年代後半といえば、パリの5月革命に象徴されるように世界的に反体制運動が盛り上がり、既成の価値観に異議申立てがおこなわれた時期。彼らも、美術館のなかに閉じ込められ装飾品と化した美術のあり方に疑問を抱き、商業主義的な画廊システムを拒絶し、のちのエコロジー運動にもつながる「自然に還れ」の掛け声のもと、大自然へと飛び出していった。その意味で彼らも反制度的であり、反都会主義であった。
代表作をいくつか見てみよう。マイケル・ハイザーの「ダブル・ネガティヴ」(1969-70)は、ネヴァダ州の渓谷に幅10メートル、深さ16メートル、長さ500メートルにわたって切り込みを入れた作品。このとき掘り出された土の量は24万トンにものぼるという。ロバート・スミッソンの「螺旋形の突堤」(1970)は、ユタ州のグレートソルトレイクの湖岸から沖に向かって土砂を運び、全長460メートルの螺旋形の突堤を築くというもの。ウォルター・デ・マリアの「ライトニング・フィールド」(1977)は、ニューメキシコ州の広大な平原の1マイル(約1,6 キロメートル)×1キロメートルの範囲に、400本のステンレス鋼を25×16列、高さ約6メートルにそろえて立てた作品。この金属棒に雷が落ちるのを待つわけだ。
このように彼らは、アメリカ西部の広大な砂漠や草原を舞台に破格の規模の作品をつくっていく。いや、単に作品を野外に持ち出して規模を拡大させたというだけの話ではない。ウォルター・デ・マリアによれば、
「ぼくの作品を見るのは、そこへ行って戻ってくる時間も勘定に入れると、じっさい1日がかりになるからね。(中略)見る人にたいして、そんなにも時間を要求する彫刻はほかにないからね――画廊へ行って、デイヴィッド・スミスやブランクーシを見て、1分、2分、あるいは5分と過ごすけれど、5分以上ということはまずない。ところが、アースワークのばあいには、作品のなかにじっさいに入っていく。時間のなかにいる」(カルヴィン・トムキンズ『ザ・シーン』より)
ということになる。つまり、アースワークは従来の彫刻とは違って移動できないものだから、見る者が時間をかけて実際にその場へ赴かなければならず、しかも「見る」というにはあまりに作品が大きすぎるため、その内部や周囲を歩きまわって体験しなければならないということだ。その意味でアースワークの登場は、「作品を見る」という体験そのものを根底から変える出来事だったといえる。ジョン・バーズレイは『アースワークの地平』のなかで、
「彼らの作品は風景そのものの中に物理的に存在するという点において、他の移動可能な彫刻作品とは一線を画している。(中略)たとえ、その作品がそこに似た他の場所につくられ得るものであっても、作品と敷地を分かつ境界線はないということを忘れてはならない。すなわちこれらの作品は分離したオブジェとして、あるいは孤立する鑑賞対象としてではなく、個々の環境と完全に融合する要素として存在する。そして、特定な場所の唯一無二の体験をアーティストにも鑑賞者にも提示するように意図されている」
と述べている。繰り返せば、アースワークとは土地と一体化しているがゆえにその場に行かなければ見られない、逆にいえば、その土地を訪れることが作品体験になるということだ。これはすなわち「不動産美術」ということにほかならない。
しかし、アースワークは「不動産美術」であっても、「サイト・スペシフィック」であるとは限らない。実際アースワークの多くはバーズレイが注意深く記したように、「そこに似た他の場所に(も)つくられ得るもの」なのだ。なぜなら、アースワークは基本的にその土地の地形とは関係なく、直線や幾何学形態、あるいは単純な数学的原理に基づいて設計されているからである。
アースワークがこのようなミニマルな形態を採るのは、ホワイトキューブのなかで急進化し、ミニマルアートに行きついた還元主義的な美術動向の限界を、現実空間のなかに放り出すことによって突破しようとしたからだ、と見ることもできよう。だが実は、彼らアースワーカーのインスピレーションは、むしろ古代の伝統から来ていた。つまり、アースワークのもつ幾何学的特徴は、ミニマリズムよりむしろ、ピラミッドやストーンヘンジなど原始宗教や天体の運行に関連づけられる原初的形態だということだ。このことは、著名な考古学者を父にもち、みずからも古代文化に精通していたマイケル・ハイザーの次の言葉からもうかがえる。
「アース・アートの意味のひとつは、美術作品の商品としての位置を完全に払拭し……アートを、ひとつの宗教に近いものとしてとらえる見かたに回帰させることだといっていい」(『ザ・シーン』)
ハイザー自身、「ダブル・ネガティヴ」と並ぶもうひとつの代表作「コンプレックス・ワン/シティ」(1972-76)の形態について、古代エジプトの墳墓マスタバとメキシコの古代遺跡を参照したものだと認めている。ハイザーだけではない。アースワーカーのなかではエコロジカルで公共的意識の高いアラン・ゾンフィストは、作品形態ではなく制作の動機に関してだが、やはり一種の古代回帰志向を表明している。
「私が巻き込まれた問題の一つは、アートの根源にもどるということです。洞穴の中の原始絵画のように、アーティスト自身が社会全体の中に組み込まれて、社会に関わっているような状況に戻るということです。今日ではこのような関係は明らかに失われている。アーティストはギャラリーの文脈に合うようなオブジェを作ることにその創造力を限定されてしまっています。しかしアーティストの伝統的な目的は共同体をテーマにし、一人の個人として、いかに共同体に美的な体験をなさしめうるかということだった」(「エンヴァイラメンタルアートにおける時間と空間の概念について」、『アールヴィヴァン』20号)
これらの発言をベンヤミン流に読みかえれば、近代以降の動産化した美術が「展示的価値」(あるいは「商品的価値」)に堕してしまったことに対して、彼らは再びかつての「不動産美術」がもっていた「礼拝的価値」(あるいは「公共的価値」)を取り戻そうとしている、ということにならないだろうか。
こうした原初的な芸術体験をよみがえらせようとしているアースワークとして、第2世代ともいうべきジェームズ・タレルの「ローデン・クレーター」プロジェクト(1979-)をあげておかなければならない。アリゾナ州にある死火山ローデン・クレーターにトンネルを掘り、内部に11室の部屋を設け、そこから空の光や天体の運行を観測しようという壮大な計画だ。すでに20年以上にわたって進められているが、もしこれが完成すれば、芸術と宗教と科学が未分化だった古代人が感じたであろう神秘の感情を追体験できるかもしれない。ただしそのためには数日間におよぶ砂漠への「巡礼の旅」を覚悟しなければならないが。
ところで、これだけスケールの大きな作品をつくるには莫大な費用がかかるはずだが、彼らはどのように資金を調達していたのだろうか。アースワークは土地と一体化した「不動産美術」だから、彫刻のように売買できるわけではない。そのため、初期のころは自己資金に頼るか物好きなパトロンを見つけて出資してもらうしかなかったようだが、やがてアースワークに理解のある画廊を通してドローイングや写真、映像などを売って資金の足しにするようになる。そもそもアースワークは一時的にしか存在しなかったり、恒久的に残された作品でも見に行く人はごく限られていたので、こうしたドキュメンテーションは貴重な資料となった。
70年代になると徐々に基金や財団などから公的援助が得られるようになり、80 年代には都市空間でのコミッションワーク(委託制作)が増え、しだいにパブリックアートやランドスケープ・デザインと融合していく。このような変化は、アースワークが公共性を獲得していく過程と見ることもできる反面、商業主義を嫌って画廊を出た彼らの反制度的、反都会的姿勢が骨抜きにされていく過程だったという皮肉な見方もできる。
そんななかでただひとり(正確には1組)、一貫して公的援助もコミッションワークも受けつけず、にもかかわらず大規模なプロジェクトをひとつひとつ着実に実現させているアーティストがいる。クリスト&ジャンヌ・クロードだ。彼らは大地に直接手を加えることはないし、みずからをアースワーカーとも思っていないが、自然や建造物に布を介在させて風景を異化させるその大がかりな作品は、アースワークに含めてさしつかえないだろう。
クリストが初めて屋外作品を制作したのはちょうど40年前の1961年、ケルン港でおこなった「埠頭の梱包」と「積まれたドラム缶」だったが、いかにもクリストらしいスケールの大きな梱包作品は、1968年の「梱包されたベルン市立美術館」から始まる。本来その内部に作品を飾るべき美術館を布で包み、それ自身を作品として提示した点で、ほかのアースワーカーと同じく反制度的姿勢がうかがえる。
以降、シドニーの海岸を10万平方メートルの布でおおった「梱包された海岸」(1969)、コロラド州の渓谷に全長400メートルものオレンジ色のカーテンを吊るした「ヴァレー・カーテン」(1972)、カリフォルニア州の台地から海岸まで約40キロメートルにわたって布のカーテンを立てた「ランニング・フェンス」(1976)、マイアミ沖に浮かぶ11の島々をピンクの布で囲んだ「囲まれた島々」(1983)、パリのもっとも古い橋を金色の布で包んだ「ポン・ヌフの梱包」(1985)、茨城県とカリフォルニア州で計3100本の巨大な傘を開いた「アンブレラ」(1991)、ベルリンの旧帝国議会議事堂を銀色の布で包んだ「梱包されたライヒスターク」(1995)など、数年おきに大規模なプロジェクトを実現させていく。
彼らのプロジェクトは立案から実現までに数年、ときに10年以上(「梱包されたライヒスターク」にいたっては24年)かかる。その間に立ちふさがるさまざまなハードル、たとえば場所の使用許可を得るための行政機関や地権者(「アンブレラ」では500人近くいた)との交渉から、自然および生活環境への影響、作品の耐久性や安全性、そして資金集めまですべてをクリアしなければならない。その解決方法はプロジェクトをおこなう国や地域、自然条件、作品の形態、準備期間、公開期間などによって千差万別であるものの、つねに変わらないのが資金調達の方法である。
初期の「梱包された海岸」にかかった費用はおよそ8万ドル。それが「ランニング・フェンス」になると約320万ドルに膨らみ、「アンブレラ」ではなんと2600万ドル(当時のレートでおよそ40億円!)にもおよんだという。彼らはこうした莫大な費用を、いっさいの寄付も公的援助も受けることなく、そのプロジェクトのために描いたクリストのドローイングやコラージュ、スケールモデル、初期の売れ残った作品、版画などの売却益によってまかなっているというのだ。そのために彼らは会社を設立して、妻のジャンヌ・クロードが社長におさまり、クリストはドローイングを会社に寄贈して月々の給料をもらい、プロジェクト終了後の収支はつねにゼロになるようにしている(したがって連邦税は納めてないらしい)。
このように全費用を自分たちでまかなおうとする姿勢は、だれからも干渉されずに表現の自由を守りたいという彼らの強固な意志に基づいている。クリストいわく、
「金銭的援助には必ず付いてくる義務、制限、圧力などによってプロジェクトが左右されてしまうのは嫌なのです」(「実現への道:クリストが語る《アンブレラ、日本とアメリカ合衆国のためのジョイント・プロジェクト》」、『クリスト:ザ・アンブレラズ』カタログ)
これを裏返せば、これらのプロジェクトがいかに公共的な空間でおこなわれ、いかに多くの人々を巻き込もうと、あくまでクリスト&ジャンヌ・クロードによる私的行為であり、個人の作品であるということだ。だから、プロジェクトに対してどれほど人々の期待が高かろうが、彼らには突然の中止を決める権利があるのだ(事実「アンブレラ」は彼らの判断で告知した予定日より1日遅らせ、数日早く終わらせた)。
このように彼らのプロジェクトはきわめて現実的な判断によってなしとげられ、そこにはほかのアースワークに見られるような神秘性はどこにもない。ただあきれるほどのスケールの大きさと見慣れぬ風景の出現に驚き、それを個人がなしとげたという事実に舌を巻くばかりである。
「15世紀のアーティストにとって宗教が重要であったのと同じく、今日では、経済、社会問題、政治こそが重要事である。それは壮大なドラマであり、この領域の知識こそ、作品の重要な部分を構成するべきなのだ」(ジョン・バーズレイ『アースワークの地平』より、クリストの発言)
[主要参考文献]
・カルヴィン・トムキンズ『ザ・シーン』高島平吾訳、PARCO出版
・ジョン・バーズレイ『アースワークの地平』三谷徹訳、鹿島出版会
・『アールヴィヴァン』20号(特集=ランド・アート)、1986、西武美術館
・中原佑介『クリスト』草月出版
・『Christo ヴァレー・カーテンの全貌とアンブレラ・プロジェクトのための
ドローイング』カタログ、水戸芸術館
・『クリスト:ザ・アンブレラズ』カタログ、佐谷画廊
・『CHRISTO WORKS FROM THE 80S AND 90S』カタログ、アートフロントギャラリー |