10月1日から首都圏で、NTTドコモによる次世代携帯電話サービスFOMA(フォーマ :Freedom of Mobile multimedia Access)が世界に先駆けて始まっている。モバイル端末で動画像をやりとりする時代がいよいよ本格化するわけだ。
MIT出身で現在トロント大学にいるスティーヴ・マンはウェアラブル・コンピュータの発明者と呼ばれ、コンピュータを身につけて動きまわることを70年代から考えていた人物だが、その彼が、パーソナルな画像撮影について、おもしろいことを言っていた。同じ画像でも、二人称の視点か一人称の視点かによって話がまったく違うというのだ。
いわゆるテレビ電話では、カメラは二人称の位置にある。「あなた」が私を見る視点で映している。FOMAも、しゃべり手の顔を映して相手に送ることを考えている。通信端末については、さしあたりそれがふつうの使い方といっていい。自分の顔をカメラで撮って、通信相手とのより親密なコミュニケーションをはかる。二人称の視点の画像のやりとりには、コミュニケーション機能があるわけだ。
一方、一人称の視点というのは、私が見る視点である。自分が見ているものを映すためには、カメラは、目と同じ位置か、少なくともその近くになければならない。
スティーヴ・マンは、じつは当初からウェアラブル・コンピュータを作ろうとしていたわけではなかった。「ウェアラブル・カメラ」を試作していた。持って歩くカメラではなく、身体につけて動き回れるカメラを作ろうとしていた。自分の目がレンズを通してみる世界を映すカメラだから、一人称の視点だったわけだ。カメラを制御するためにコンピュータを使うようになり、ウェアラブル・コンピュータへと発展していった。
当初はよろけそうな巨大な装置を身につけていたスティーヴ・マンも、いまはメガネに小さなCCDを組み込み、腰につけた小さなコンピュータで制御できるぐらいにまで装置を進化させているようだ。
一人称の視点でのパーソナルな画像には記憶を呼びさます機能がある。カメラは見ているものを写す記録装置・記憶装置で、写真はそうした機能を果たしている。そして、容量が飛躍的に増えているコンピュータの記憶装置ならば、かなりの分量の動画を蓄積できる。いずれは見ているものをそのまま蓄えることもできるようになるだろう。それは、自分の見ているものを貯めておくもうひとつの「脳」といったものになってくる。この機械的な脳は、人間の記憶とはちがい、すべてを記憶する。人間がぼうっと見ていたり、見逃していたものまで視野に入ればすべてを記録する。
さらに、機械の脳は生物的な脳とちがって、自分以外の人間もアクセス可能なものにできる。データをサーバーに蓄積し、ネット回線でアクセスできるようにすれば誰でも見ることができる。さらに効果的な検索機能があれば、それを使って、実際は見ていない風景を誰もが「思い出す」こともできるようになるかもしれない。
前回、情報のフローとストックについて書いた。自分の顔をしゃべっている相手に送るのはフローの情報であり、記憶装置としての動画の利用は情報のストックである。FOMAはこうした二つの側面のうち、おもに前者を使っているわけだ。
デジタル技術を使ったメディアやミュージアムにとって、フロー情報にもまして、ストック情報が重要であるということも前回書いたとおりである。
たとえば、一人称のパーソナルなウェアラブル・カメラで撮った情報が蓄積され検索可能な形で公開されれば、事件が起こったとき、その場に居合わせた人のカメラに映っていた画像が参照されるようになる。ほんとうにこうした状況になれば、プライバシーやセキュリティなど複雑な問題が起こってくるだろうが、ともかくマスメディアが、パーソナルな映像記録の集積とその検索といった形に変容し始めるかもしれない。 携帯端末と動画像、インターネットの結びつきには、FOMAによって切り開かれつつある二人称のカメラの機能を超えた未知の可能性も眠っている。
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