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今、日本の都市生活の中で、カフェが静かな広がりを見せている。『カフェ』という雑誌ができたり、『ブルータス』もカフェ特集を組んだりしている。どうして今、改めてカフェなのだろうか? おそらくその最も深い理由は、資本主義の強度・価値観への疲労ではないだろうか。より少ない時間でより多くの成果を生み出すために活動を限りなく効率化する――我々の身体に沁みついた経済合理性という魔への静かな反抗が、今、カフェという空間を必要としているのではないだろうか。
居酒屋、カラオケ、マッサージ、アロマセラピーなど、資本主義に対する疲労を「癒す」文化的装置=ビジネスが巷に氾濫している。カフェにももちろん「癒し」の機能があることは否定できない。しかし、もしかすると、カフェには――それをもはや「カフェ」という名で呼ぶのは適当でないかもしれないが――単なる癒しを越える可能性が内包されているのではないだろうか。そのような可能性を、歴史に敏感なクリエーターたちが模索している。
その模索の嚆矢の一つは(私の知る限り)、90年代前半に京都で隔週末に開かれていた「ウィークエンド・カフェ」であろう。本特集で私と対談している小山田徹他、数名のクリエーター、学生たちが、京都大学の学生寮の一角で運営していたこのカフェには、関西のみならず、国内外から、様々なアーティスト、アート・マネージャー、アクティヴィスト、研究者、学生たちが、引き寄せられ、夜の白む頃まで、静かに、時には熱っぽく語り合っていた。それは、確かに――ダイヤモンズ・フォー・エヴァーによるワン・ナイト・クラブの企画や、アート・スケープというアート・センターの試みなどとともに――、京都という都市において、新たな文化の醸成装置として機能していたように思われる。
以降、この京都での試みに刺激され、あるいは直接刺激されないまでも、共通の問題意識を出発点として、東京でも、飲食とアートを絡めた(常設または仮設的な)場――それをすべて「カフェ」と呼ぶことはできないかもしれないが――の創造が試みられた。私の知る限りでも、P-House、コマンドNのPowwow、登満寿館、meta都民cafe などがそれぞれ独自の試みを行った(あるいは今なお行っている)。
ところで、なぜ彼らは(展覧会でもシンポジウムでもビジネス・ミーティングでもなく)あえて「カフェ的なもの」に注目するのだろうか。それは、ある「中間」的なコミュニケーション――未だ明確な企画という形もとらず、かといって単なる偶発的な雑談でもない、ある「前‐作品」的なコミュニケーションを求めているからではないだろうか。飲食で身体が和らぐことにより、シンポジウムのような意識的会話でもなく、さりとて酔いどれの無意識的繰言の応酬でもない、ある「前意識的」仕種の交感。そこに未だ形は定まらないが、ある新たな文化的ヴェクトルの予感が醸成されていく。しかも単に内に閉じたプライベートな集まりでもなく、かといって広場や街路といったパブリックな空間での偶然的な出会いでもなく、それが位置する地域、コミュニティと共にある場。そんな「カフェ的なもの」の「中間」的で、「あいまい」な文化的可能性にこそ、彼らは注目しているのではないだろうか。
17世紀、ロンドンのコーヒー・ハウスに始まり、19世紀、パリやウィーンで大きく花開くカフェ文化。それは、夜のキャバレーのエンターテイメントやエロスと交錯しつつ、20世紀に入ると、アヴァンギャルドの温床となっていく。ミュンヘンの「ジンプリチシムス」、チューリッヒの「キャバレー・ヴォルテール」、ベルリンの「ロマーニシェス・カフェ」、あるいはパリの「ラパン・アジール」など、ダダイズム、表現主義、未来派、キュビズムといった前衛運動のまさに前線基地であった。その後も、「カフェ=キャバレー的なもの」は、ヨーロッパの諸都市、そしてニューヨークのローカリティと化学反応を起こし、様々な変種を誕生させながら、新しい文化の発生装置となっていった。
しからば、今の東京でも、「カフェ的なもの」は、単なる資本主義的疲労への「癒し」を越えて、新たな文化的ヴェクトルを醸成することができるのだろうか。しかし、都市東京は巨大である。この、ますます拡散し、ハイパーリアル化していくメガロシティの中で、「カフェ」の前意識的仕種の交感が、はたしてどれだけの力を持ちえるのだろうか。それは、はなはだ心許ない気がする。おそらく唯一の可能性は、東京を「一つ」の都市として捉えることを諦め、いくつかの「地域」の集合体として捉えなおし、その「全体」への諦念を、「カフェ的なもの」を通し、コミュニティへの希望へと屈折させることにしかないのではないだろうか。上記のいくつかの試みは、まさにその希望に賭けているように思われる。
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