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特集=アート・キャラクター .


アート・キャラクターの受容
 
センダック

▲モーリス・センダック
『かいじゅうたちのいる
ところ』(富山房、1986)

村上隆

▲村上隆「DOB君」
(『ふしぎの森のDOB君』
美術出版社、1999より)

奈良美智

▲奈良美智
「The Little Pilgrims」1999
シカゴ現代美術館HPより)

特徴のある風貌のキャラクターが美術作品に登場するのは、それほど目新しくはない。たとえば50年代から70年代に隆盛したもとシュルレアリスムの女性作家たち、レメディオス・バロやレオノーラ・キャリントンらが描く架空の生物たちは、作者である描き手の構築した物語世界に役割を与えられて生き、見る者は彼らの異様な、しかし欠損や過剰があるがゆえに魅力に満ちて忘れがたい風貌を入口にして、より抽象的な物語へと足を踏み入れた。バロやキャリントンの描く生物は、絵本作家モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』に出てくる怪獣たちと同様に、作品世界への水先案内人である。
だが、従来の作品に出てくるこうした生物たちは、90年代初頭から目立ってきた、ここで言われるような「アート・キャラ」のように、いわゆる「キャラ萌え」な事態を引き起こすようなアイドル的存在ではなく、閉じた物語のなかで役割を演じ続ける。ポップアートからアプロプリエーション・アートの作品に登場する、社会的背景を作品のコンテクストに持ち込むために用いられる、有名無名のキャラ的存在も同様だ。
さて今では、受け手が作者によって形成された物語に介入し、その世界観を尊重しつつも、キャラクターのみを抽出して、自ら彼らのための(その大半がステレオタイプな)物語を生成してしまう事態は、「やおい」に限らずゲームやアニメの世界ではあたりまえになり、またアイドルや漫画の場合にもこの抽出は易々と行なわれて、同人創作をにぎわせている。たとえば隻眼であること、あるいは特徴的な得物をもつなど、人気の出るキャラは細分化されたツボをもち、広くて狭い受け手の趣向に合わせて続々と生み出される。ともあれ、これを受け手の成熟と呼ぶか否かはさておいて、美術作品に登場する現在のキャラクターたちも、こうした状況のもとで受け取られていることは、前提にしておきたいと思う。観客たちはおそらく、作り手であるアーティストたちよりもはるかに多く深くサブカルに接し、コミック、ゲーム、アニメと同列に――文字通り分け隔てなく――美術作品を見ている、はずだ。

村上隆氏の生み出したキャラクターは多岐にわたるが、その代表格であるDOB君は、デフォルメを繰り返していくうちに、きのこたちとともにいるときに見せる「つぶらな瞳」のヴァージョン――いわゆるSDキャラ化か――が出てきてから、ぐっと近づきやすくなって見える。村上氏が最初に提示したDOB君の定型は、大きなバルーンになり、日本画のテクスチュアで描かれ、やがて断片化されて、最後になんとも「可愛く」なった。ディズニーが最初に描いた、まだ目玉の大きくなる前のねずみっぽいミッキーのように、その存在は線が細い。大衆の好みに合わせて目玉の大きくなったミッキーと反対に、時流に合わせて(デカい目玉はもはやキャラの主流ではない)、つぶらな瞳を獲得したDOB君は、女の子たちがTシャツで身につければ、しっくりと収まる。
ただ私は以上のようなことを、いわゆる絵画のコンテクストとして語るべき“スーパーフラット”とは、別次元で書いている。こんなふうに、見る者が作品それ自体の話をせずに、キャラの話だけをしてしまえるのは、アニメやゲームでは普通のことなのだが、美術作品について書くにはまだうしろめたさがつきまとう。それでも、ここで造形云々の話をするよりは、DOB君を出してギャグを描いたほうが、私はより欲望に忠実だと思う(加えて、そのギャグがつまらなくても、それは当然私の限界であってDOB君のそれではない)。(公式サイト「HIROPON FACTORY」)

いっぽう、奈良美智氏の描く作品に出てくるキャラクターは、当初はナイフを持っていたり包帯を巻いて、ある種の欠損や過剰を感じさせたが、それがしだいに漂白されて、近作ではただこちらを見つめ、あるいは目を閉じた存在へと変化している。ナイーヴさがさらに内面化され、攻撃性が転じて穏やかな趣に変わっている。その風情は、「pilgrim」という名にふさわしく、巡礼し、受け入れ、許す存在を思わせ、器のように見る者のメンタリティをそそぎ込まれて繊細さを分かち与える。奈良氏の作品にはげまされた、というような発言が、奈良氏の公式ファンサイト「HAPPY HOUR」のBBSには日々書き込まれている。ここでは「絵画の自律」や「作品の構造」といったような言葉はこのうえなく空々しい。彼らは間違いなく、作品の向こうに奈良氏の存在を感じていて、コミュニケーションを図ろうとしている。
ただしそれは、自分が前に進むための行為であって、厳密な意味での個対個の対話ではない。そして誤解を恐れず言えば、描かれたキャラが触媒となり、見る者に内なる声をその向こうに届かせようとする行為を促すのは、宗教画のイコン(=アイコン)が担っていた役割そのものだ。イコンを見る者が、語りかけ、声を届かせようとするのは、その向こうの神だ。絶対的な他者でありながら、祈って自分を律すれば、願いを聞き届けてくれる存在。だがそこには教典や律法はなく、特定の宗教心の遵守も必要ではない。奈良氏の作品において、キャラは見る者と世界を仲介し、現実の奈良氏ではない誰かが、彼らの話を受け止める。グラフィティで路面を埋め尽くしたキース・ヘリングが描いた光り輝く赤ちゃんも、間違いなくこうしたイコンのひとつだが、奈良氏のつくりだすものたちは、あの赤ちゃんのように「Love & Peace」と一言に置き換えることはできない、両義性がある。

ほかのジャンルにおいて、キャラクターがキャラとして「立つ」ためには、一見してわかる特徴的な外見と、印象的な性格づけやバックグラウンドが欠かせない。そして現在においては、そのキャラがなんらかの「亀裂」を抱えていることが、必須である。見る者が介在しある種の歪曲をほどこすことのできる亀裂があれば、見る者はそのキャラを欲望の対象にすると同時に、共感のための器として、自分自身を投影できるからだ。確固とした「自分自身」なるものが幻想か否かは別の話だが。
そして美術という枠組みのなかに生きているキャラクターたちは、ほかのジャンルではあって当然の設定資料集やシナリオをもたないかわりに、この亀裂を際だたせた存在として、見る者に訴えかける。あらかじめ物語や明確な性格づけを剥奪されている彼らのような存在は、私たちの解釈や心理状態ひとつで、いかようにも変化する。その解釈を助けるのは、声優の放つ台詞やポリゴンの動きではなく、作品を構成している描き手の残したライヴ感のある筆致や塗り重ねられた素材感、あるいは筆触をなくすことで際だつ構図が、代わりに果たす。
だが、野暮と思いつつも気になるのは、こうして置換を経て作品を見ている受け手たちが、それ以降「キャラのいない美術作品」にも魅力を見出すのだろうか、ということである。彼らに充足感を与える要素が、キャラのもつ魅力に直結しているとしたら、キャラものから美術全体への興味の拡張は、別段必要なことではないように思う。少なくとも私は、リンクのいないゼルダや、勇者のいないドラクエをプレイしたいとは思わないのだが、それとどこが違うのか――受け手にとって、キャラはそれほどに大切だ。キャラのいない作品を前にして、まるで背景だけが緻密に描かれたゲームやアニメを見させられているかのように途方に暮れる人々(これは私の姿でもある)を、つい想像してしまう。そして、キャラへの思い入れや感情移入をもってする以外の美術作品の受容を、「万人に」強いることは、ある種の暴力だとさえ私は思う。
アート・キャラは、積極的に美術を見ようとする人を、確実に増やしている。だがこの状況で、限りなく他のジャンルとの境界やこだわりを殺して美術表現の許容枠を広げようと動くのか、イコンとして特定の受容層を育て深めていくかによって、道は分かれるだろう。キャラに依ってたつ表現をせぬつくり手たちは、この事態を受難と受け取るだろうか――言うは易いが、キャラのもつ存在感の魅力に拮抗する表現を、現出させるほかないとしても。

[まかべかおり ライター・編集者]

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