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『ブレア・ウィッチ
・プロジェクト』
監督=ダニエル・マイリック
+エデュアルド・サンチェス
URL=http://www.bwp-jp.com/
渋谷東急ほか全国松竹・東急系にて公開中
配給=アスミック・エース
+クロックワークス+松竹
(C) 1999 Blair Witch Film Partners, Ltd. All Right Reserved.
Artwork: (C) 1999 Artisan Pictures Inc. All Right Reserved.
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1999年に日本で見ることができた作品群を回顧しながら、映画の現在を考えようとする際に重要な位置を占めると予測される、ふたつの極に向けた分解のきざしについて書きたい。
しかし、それは、古くて新しいタイプの両極分解でもある。一方に巨大な資本と技術力に物を言わせたメジャー映画があり、他方に低予算のデジタル・ヴィデオなどで撮影されたアイデア勝負のマイナー映画がある。
映画は前世紀末の先端テクノロジーを背景に“動く映像”として誕生した。その後も、たとえば、サイレントからトーキー、モノクロからカラー、あるいはスクリーンの大型化といったドラスティックなテクノロジー革新が、映画の質的な革新をも促す大きな要因になってきている。そして 『タイタニック』の大成功以降、CGによる映像作成の進化は単に珍しかったり実験的だったりする“特殊効果”の領域を良くも悪くも飛び出してしまっている。もっとも、今年公開されたハリウッド大作の多くは、手を変え品を変え世紀末的世相を演出するスペクタクル映画がやはり主流を占めた。そうした意味で『タイタニック』効果の真価を問うような映画の登場は、新しいミレニアムにまで持ち越しのようだ。
それでは、巨大な資本や技術力などを持たない反ハリウッドの立場で生産される映画群の特徴がどこにあるかといえば、そこにもやはりテクノロジーの進化が影響してくる。
まずは、『奇跡の海』などで知られるデンマークの異端児的映画作家ラース・フォン・トリアーを中心に立ち上がった《ドグマ95》の動き。ドグマとはあのドグマティック=教条主義という意味でのドグマであり、このプロジェクトで撮られる映画には厳しい掟が課せられる。手持ちカメラで撮ること、人工照明を使わないこと、全てをセットではなくロケーションで撮影すること、音楽を使用しないこと等々が、このプロジェクトで撮る作家を拘束する主な掟だ。その第一弾として作られ、98年のカンヌ映画祭で審査員賞を獲得した新鋭トマス・ヴィンターベア監督の『セレブレーション』が日本でも公開された。
《ドグマ95》的発想は、今後、軽量で手軽に撮影できるデジタル・ヴィデオ・カメラという新テクノロジーを武器にしたデジタル・シネマの動きと合流するだろう。その最たる例が、低予算にかかわらずアメリカで大ヒットを記録し、話題になった映画 『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』。この映画は、インターネットをはじめとしたメディアを有効利用しての話題作りの巧みさも含め、新しいインデペンデント映画のサクセス・ストーリーを普及しえただけでも重要な作品と言える。さらにこの映画が興味深いのは、ある種のホラー映画の形式を盗用しながら、恐怖の対象であるウィッチ(魔女)が視覚化されることのないまま物語を進行させる点だ。昨今のCG依存型ハリウッド映画だと、恐怖の対象である魔女をどのように視覚化するかが勝負なのに、『ブレア・ウィッチ』では戦略的にその焦点を排除してしまう点が革新的なのだ。
1999年に公開された日本映画では(年末の公開だが)、 大島渚の久々の新作 『御法度』が素晴らしかった。司馬遼太郎原作の新選組もの、と聞いて、少しばかり警戒感を抱いてしまいそうだが、内容はやはり完璧なまで大島映画だ。あの『戦場のメリークリスマス』に連なる美形の男たちの競演による同性愛を主題にした映画として受け止められるだろうが、これは単なる耽美趣味の映画ではない。というか、そう見られると、満足できない観客も出てくるだろう。新選組といえば、維新前夜の激動の時代を舞台に、個性ある若い男たちのチャンバラや自分の身を滅ぼしてでも天下国家に殉じる男たちの美学といった世のオジサンたち(?)が大好きな視点満載で何度も何度も映画化されてきたが、この映画はそうしたステレオタイプな話とは全く違う。新選組という暴力的な男の集団が潜在的に抱える男性中心主義的な同性愛環境の強固さと、それと表裏一体のものとしてある脆さが同時に描かれる。彼らが死に場所として選ぶのは、天下国家と無縁な卑小で肉体的な戦場なのだ。
大木裕之の新作 『心の中』を見ていると、彼の映画だってこれまでの“ゲイの美学”的な解釈から解放してあげるべきだと思う。彼の近作もフィルムとヴィデオの合間を漂流するようにして撮られていて、先の反ハリウッド的なゲリラ映画の変種と言える。また注目したいのは、映画の成り立ち自体が肉体的なパフォーマンスの要素を強く包括し始めている点だ。大木裕之の映画は今後ますます耽美主義解釈では収まりがつかなくなるだろう。
99年は隔年開催の京都映画祭と山形ドキュメンタリー映画祭が開催される年にあたっていた。前者では、戦前戦中期に量産された、唄あり踊りありのやたら陽気な「明朗時代劇」に焦点をあてた企画が興味深かった。後者では、これまで記してきたようなヴィデオ・カメラの普及を背景にして、アジア各地でドキュメンタリー映画が量産されている現状を生々しく伝えようとする試みが目立った。低予算・小人数で撮影可能な映像には、ジャーナリスティックな政治性や速度が期待できる。ただし、質的にはいまだ未知数ではあるが。
また映画祭とは異なるが、 ピエル・パオロ・パゾリーニ、フリッツ・ラング、ハワード・ホークスなどの大作家をフィーチャーした集中上映が目立った。特にパゾリーニになど、一昔前はJ=L・ゴダールと並んで映画の既成概念を覆す英雄としてカリスマ扱いだったにもかかわらず、そのスキャンダラスな死がたたってか、このところあまり上映される機会がなかっただけに、新たな観客層に向けての意義深い試みだったと思う。
東京国際映画祭はかなり様変わりした。コンペティション部門等々のパワーダウンは否めない(予算などの問題もありそうだが)。ただし充実した特集上映がそれを補った。新たな映画の発掘だけでなく、映画史への独自の視点に則した映画史の回顧もまた映画祭の重要な役割だ。 山形でのヨリス・イヴェンスの代表作を網羅する特集上映 もそうだったが、東京ではロベール・ブレッソンの全作品が上映されたので、昨年の暖かな秋は私にとって戦慄と心地よい疲労を誘う季節になった。もう新作を望めない老齢であるブレッソンの映画を、最後の作品である『ラルジャン』(1983)にいたるまであらためて見直してみると、やはり空前絶後の偉大な映画作家だったという思いが募る。
ブレッソンの隙のない、研ぎ澄まされた映画は、深い影響力を周辺に撒き散らしながら、しかしそれがあまりにも独自の文体をもつ映画であるために、安易な模倣や追随を許さない孤高の位置にある。たとえば、私たちは“ゴダール以後”や“大島渚以後”を口にすることができても、“ブレッソン以後”を軽はずみに語ることができない。ただし例外的に、“ブレッソン以後”を感じさせる作家がいて、それがジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレだ。今年の東京映画祭では彼らの新作『シチリア!』が上映された。いつもの隙のない完璧さに加えて、おおらかな肉体性やユーモアも楽しめるように思えたのは、この映画が素晴らしいイタリア(シチリア)語の響きに満ちていたからだろうか。いかなるトレンドとも無縁に、反ハリウッドを通り越して、別種の映画史を着実に築きあげようとする強靭な試みがここにある。
新しいドキュメンタリー映画の手法、あるいは理論に期待したい。